行きませんでした(笑)
ホテルから歩いて10分ちょっとの所に水族館が
あったのでそちらへ向かう事に。
(義弟達は難波へ行ってお好み焼き食べたそうです)
そんなに大きい建物じゃなかったけど
グルグル歩いてみて回ったら、タップリ二時間
掛かりました。
明るいうちに入館したのに、出てきたら真っ暗。
居酒屋で軽く夕飯済ませてホテルに戻りました。
ひたち海浜公園はこの時期、6時半には駐車場が開くほどの行楽人気。みはらしの丘を埋め尽くすネモフィラの満開にあたるからで、いわゆるインスタ映えスポットとして定着してしまいました。丘のふもとからは空に続くインシグニスブルー、丘に上がればその先に海も臨める絶妙のロケーションです。戦前戦時中は旧日本軍の飛行場、戦後はアメリカに接収され対地射爆場として扱われていたことは歴史の彼方の話になりました。
ただ、彼方に追いやってはならないのは、この射爆演習で1950年代にはけっこう沢山の地元住民が流弾の犠牲になったり低空飛行のプロペラに巻き込まれたりという事故が多発し、日米地位協定に阻まれ泣き寝入りを余儀なくされたことと、これをきっかけに当地の米軍基地が沖縄県に移転する結末になった歴史です。茨城県民は迂闊に戦後を忘れてはいけないなあと思わされますが、70年代の返還の頃、大人はそれを教えてくれませんでした。
公園のネモフィラは自生ものではありません。毎年ピークが過ぎれば撤去され、秋のコキアに備えて丘の手入れが行われ、コキアが見ごろを閉じたら翌年用の植栽が行われます。国土交通省が珍しく国民に支持される風景を生み出しているのです。慕われすぎの人出で連休や週末なんぞに軽く見物にも行けなくなりました。だから実は、ここで挿絵にしているのはひたち海浜公園ではなかったりします。ずるしているかどうかはともかく、同じ瑠璃唐草ではあります。
ソメイヨシノはすっかり葉桜になって数日経ちます。その間、梨畑の白い花が満開となりました。梨は自家受粉しないので、農園の人々によって受粉作業が行われ、消費者側の僕は秋の実りの楽しみを待つことになります。
バラ科ナシ属の梨の花がどことなく桜に似ているのも道理で、桜もバラ科サクラ亜科サクラ属です。
梨の花には魔除けの力があると、古代の人々は信じていたそうです。言葉遊びによるゲン担ぎでは、「梨を植えれば何もなし」(何も、というのは凶事のこと)と言ってみたり、「財産が失われ無しになるから庭に植えるな」などとも揶揄されます。ところが「鬼門の方位に植えるのは例外」とか、もうほとんど言ったもの勝ち。それでも「愛情」「清楚」といった言葉も与えられているから、まあだいたい万人に好かれているのでしょう。
なんてまたも風情寄りなことを書いてますが、季節の上ではスギ花粉が収まるのと入れ替わりにヒノキ花粉が襲来する時期で、車庫に入れておいても東西方向吹き抜けだから積もる積もる。幸いにも僕自身はどちらの花粉にもまだやられていませんでしたけど、初代エスクードの世代はエアコンにフィルターなんかついていないので、このまま走り出して風圧で吹き飛ばせてもいくらかは車内に侵入するかもなあと思うといやーな気分になります。
2月末に職場が移転したため、東京高速道路は僕の通勤ルートではなくなりました。わずか2キロくらいの一般自動車道ですが、いよいよ4月5日の20時で閉鎖廃線となります。
今後は歩行者天国というか、屋上公園として活用されるとか。そのための実証実験も何度か行われていました。
1984年の「ゴジラ」で、有楽町マリオンや東海道新幹線が襲われるよりも早く、この道路が、放射能熱線で撃墜されたヘリコプターの爆発によって、渋滞中の車両が次々と燃えてしまう場所でした。
現実的なことを思うと、ここを公園化してもゲートを作って夜間封鎖しないとスラム街化するんじゃないかなあ。
そんな話はまあ置いといて昨日の午後、960000キロを越えました。ここからまた長いこと長いこと。その割にはペースが上がりません。このままだと車検満了までに間に合わんなあ。
先月末に事務所が移転し、港区まで走ることが無くなりました。と、思っていたら、BLUEらすかるΩをイタリア街で撮ったことが無かったなあと気づき、わざわざ行ってしまう愚か者。一歩間違うと不審者扱いされそうな、世知辛い世の中になりました。が、この時間帯から二時間もすると、自分のクルマをかっこいい背景で撮りたい男の子が三々五々とやって来る場所でもあります。たまに広場のまんなかに車両を入れちゃう大馬鹿者もいます。
東京に戻ってきたころに比べてこの界隈もイタリアっぽくないビルが増えていて、明るい時間じゃ撮りたくないなあと感じています。来ようと思えば来られるところだけれど、たぶんここは自分の中では見知らぬ街へと変わっていくのでしょう
「東風解凍」、はるかぜこおりをとく七十二候7番目の季節が昨日から始まり、7日あたりまでに春めいた陽気の兆しがもたらされる頃となっています。我々はたいていの場合「四季」のうつろいは感じるものの、それを細分化して二十四節気、さらに3つに分けるのが七十二候と、古代中国の人々には我々以上に優れた体感センサーと風物を見極める目があったようです。春風が吹いて、水面を覆っていた厚い氷を解かし出す、わずか五日間の季節の感じ方です。
春風は「東風」のことで、「はるかぜ」とも「こち」とも呼ばせますが、我々の暮らす地理感覚だと暖かめの大気が風になって届くのは「南」からのような気がします。しかもまだ南岸低気圧が渡って来そうな天気図と馬鹿みたいな寒さも続いているしで、95万キロに達したたクルマの暖気はトルクコンバータ内の固着を解くために長めにしなくてはなりません。
昨日の話だけで閉じるわけにもいきませんから、やっぱり古代中国の天文側の暦のことで、2月4日を紐解きます。これは北斗七星の運行をもとにした「十二直」(じゅうにちょく)というもので、北斗七星が北極星に対してどの位置にあるかを12等分して時間や日・季節を表すために作られました。
この12の意味には建(たつ)、除(のぞく)、満(みつ)、平(たいら)、定(さだん)、執(とる)、破(やぶる)、危(あやぶ)、成(なる)、納(おさん)、開(ひらく)、閉(とづ)が与えられており、星の位置関係で巡っていきます。今日、2月4日はこのなかの「満」にあたり、物事が満ちあふれ、婚礼・旅行・引っ越しなどほぼ何をやっても吉といわれています。ただし同じ古代中国の「二十八宿」(にじゅうはっしゅく)という天文学の示すところによると、今日は「翼宿」(よくしゅく)と言い、種まきや旅行は吉ですが、婚礼については真逆の凶を説いています。
とりあえず旅行は吉らしいので、どこか知らない街へ立ち寄ってみます。旅行じゃなくて仕事だけどね。
東関道の佐原から潮来区間が開通した頃、まだ僕はジムニーに乗っていました。この当時は「将来は鹿島(この頃の表記)まで路線が伸びるんだなー」と思っていました。当然のように千葉から水戸までつながっている国道51号の多重化路線として太平洋沿いに北上して水戸へ向かうものとばかり。左図の延伸になるとは想像もしていませんでした。いずれにしても550ccのジムニーで走るのは結構大変。潮来からは霞ケ浦沿いに移動するので水戸延伸は役に立たないし。
この延伸区間・茨城町から鉾田市に至る水戸線が開通し、残り区間があと二年くらいでつながるのですが、予定されているインターチェンジが麻生と北浦(たぶん14と15)。北浦の左岸を走るため、結局は鹿嶋には行かないというオチ。そのうち書き換えられるのかこのままほったらかすのか。と思ったら、さらに遠い将来、神栖方面への延伸が計画に乗ったとかで、いくらかは鹿嶋市内を通るのかもしれません。看板が偽りになりませんように。