「はい、お土産」
と新月サンがくれたガチャのカプセル。
開けたらスイフトが出てきました。
一緒に行った人がくれたそうな。何して貰ったのかしら???(新月サンは貰っていない)
昔アニさまにもらったエスクの隣に飾ろうかな。
石巻市の港周辺は、水産業関連の民間施設がずいぶん復旧してきました。旧盆前には魚市場の一部も操業再開しており、残りのブロックでも建屋の工事が進んでいます。工事中の市場の岸壁に漁船が接岸しているというのは不思議な光景です。
ここが完成すると、端から端まで800mを超える岸壁と市場建屋となり、東洋一の規模になるのだとか。3年前の今頃はまだヘドロのにおいが立ちこめ、全壊した建物とがれきの山でしたし、地盤沈下で海水が入り込み一帯が冠水していたのですから、よくここまで復興したなあと思わされます。
旧北上川をはさんだ対岸のの門脇地区などはまだまだこれからの風景ですが、このあたりもまたがれきと廃墟の荒れ地でした。そこら中に積み上げられていた自動車のスクラップも、いつしか姿を消し、火災で中が焼けてしまった小学校の校舎をのぞけば、3年半の昔に何がおきたのかはもうわからなくなってしまったかもしれません。
ここは自主再建する人々のための区画整理が始まっており、3メートルくらいの土地のかさ上げが行われます。看板のあたりから向こう側には復興祈念公園が整備されるそうです。あと3年もすると、全く新しい町に生まれ変わるでしょう。
二つのエリアを結ぶ、旧北上川をわたる日和大橋も、出退勤時間は混雑しています。でもべた踏みをするほどの坂じゃない。そう見せるのには、ちょっと望遠が足りなかった。
しかし橋の名の由来となっている、ここからみた向こう岸にある日和山には、北側斜面に思わずべた踏みしたくなる「物見坂」というのがあります。自分で通ったのが下りだったので、そういう傾斜に見えたのかもしれませんが、積雪時には行きたくないなあという坂道です。
石巻百景というウェブサイトがありますので、そちらをご覧ください。物見坂の下からの風景は旧サイトにありました。
それにしても記事をアップロードした数時間後に、女川、石巻から東松島にかけて時間あたり120ミリの豪雨で、各所に床上浸水被害が出て、大雨洪水警報と共に土砂災害の警戒も開始されているようです。変わってきたとは言えどもまだ復興は途上の街。けが人や二次災害が起きないことを祈るばかりです。
中秋の名月というのは旧暦の8月15日であるらしく、昨夜がそれであったけれど、月齢を見たら13.5くらいで、それでも満月扱いなのが意外でした。9日になると月齢14を越えるのですが、昨日が十五夜だったので、本日から「十六夜、いざよい」と呼び方が変わってしまうのです。
いざよいとは、ためらうという語意を持ち、その由来は「十五夜の月の出よりも遅い」からと伝えられていますが、9月8日の月の出が17時15分であったのに対し、9日は17時56分(東京地方)。古代の人は割とせっかちだったのかも。
そんな十六夜の月は、ことし三度目のスーパームーンであります。が、どうも天候がよろしくないので、仙台ではちょいと観測は無理のよう。
いつだったか誰に聞いた話かは忘れましたが、十五夜よりも十六夜の月の方が明るい。という逸話は、ひょっとしたらスーパームーンの十六夜の月を見た人の感想なのかと思い至りました。まあ気持ちとしてはいざよいという語意的には無関係のこの語感が、じゅうごやよりもなんとなくすごいのだ。と思い込んでもいるのですが・・・
夏の開催を主催者側の都合で中止してしまったのに、なんですが、つくばーどin妙高高原はけっこう人気イベント。再起動させていただくことになりまして、11月1日に宿を確保しました。
高原は晩秋となりますが、中腹の紅葉はまだ見ることができるでしょう。
ぜひご参加を。お待ちしております。
バイクの男は唐突に聞いた。
『いえ、違いますが』
サイドキックの男は答えた。
『あ、すいません』
バイクの男は走り去った。サイドキックの男は思った。
『まだ信号、赤なのに…』
先日の出来事です。取引先の担当者と一緒にサイドキック2号で外回りをしておりました。
途中、一台のバイクが後方に付いているのに気付きました。比較的道は空いているのにこちらを抜く気配もなく、しばらく同じペースで走り続けたのです。
味の素スタジアムに差し掛かり、道路幅が広くなったところでバイクは2号の右側に並びました。ヘルメットのバイザーで眼は見えませんでしたが、明らかにこちらを凝視しています。信号が赤になり停車すると、今度は左側に回り込んできて窓をノックするではありませんか。
はて、何か気に障る運転でもしちゃったかな?と窓を下げると開口一番
『咄家さんですか?』
確かに一時、小朝に似ていると言われたこともありましたが、いきなり落語家に間違えられることもなかろうと『違います』と即答し、路上の邂逅はそれまでとなりました。
走り去るバイク。信号が変わり妙な空気感の中で走り出した2号の車内で助手席の同乗者が、
『アラシダさんて誰ですかねぇ?』
へ?
『咄家さんて聞かれましたよね?』
と私。
『いえ、アラシダさんて言ってましたよ』
『・・・えーとー(汗)・・・』
どうやら雷蔵さんと間違われたみたいです。“ライゾウさん”と言わなかったところを見ると、つくばーどのミーティングなどには参加されたことのない方なのでしょう。人違いとはいえ、せっかく声をかけてくれたのに無下にしてしまいました。申し訳ないことです。
同じ車種に乗っている、というだけで見知らぬ人に声をかけるということは、けっこう勇気のいることです。大概警戒されてしまうのがオチでしょう。私の生活圏にも個性的なエスクードが三台います。
私がジムニーに乗り始めた1983年頃は、四駆はジープ、ランクル、ハイラックス、ダットラ、ロデオくらいでありまして、パジェロの爆発的ブームが起きる直前といった時期でした。
某マガジンの黄色いステッカーをバンパーに貼り、四駆同士すれ違う際には手を挙げて挨拶しようね、という今では考えられない四駆乗りの奇妙な連帯感があった時代です。
声をかけてくれたバイクの方、年齢は私よりもかなり若い印象でした。もし、またいつかどこかで巡り会う機会があったら是非お話ししてみたいと思った出来事でありましたです。
しかしBLUEらすかると和邇家のサイドキック2号を間違えるなんてね。私からしてみれば光栄なことですが、なんで間違えたんだろ?
朝一番に届いた和邇さんからのメールがあまりにもおもしろほほえましかったので、事後承諾転載です。昨日の僕自身の体験記事よりもインパクトがあります。そして確かに80年代ってそういう時代を過ごしていて、エスクードに乗り始めてからエスクードとすれ違おうモノなら両手を挙げて(おいおい)サインを送りあった時期がありました。
和邇さんには最初、
「そのバイクの人がチブル星のアンドロイドじゃなくてよかったし、和邇さんがまたいたづらっ気出さずに違うと言ったから、フルハシ隊員みたいな目に遭わずに済んだのかもだよ」
と言ったのですが、バイクの人にしてみればきわめてどきどきの状態で声をかけたのに人違いだったという、穴があったら入りたくなる瞬間だったかもしれません。いやはやそれは間接的にも申し訳ないことをしてしまいました。僕もハナシカではないのですが、声をかけてもらえたなら立ち止まれるよう心がけて参りますので、甲州街道のバイクの人、東北に来られることがあったらまたトライしてください。
ちなみにBLUEらすかるは水色のエスクードです・・・ん? 少しお待ちください。
和邇さんのお嬢妹から入電です。
「それって間違われた男というより、聞き間違えた男じゃないですか!」
うーん、そうとも言えるなこれは。