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  ~懲りない傾向~

巡り合わせの赤倉

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絵心も文才もないので、僕は岡倉天心だとか横山大観などにはさほどの執着もありませんでしたが、天心終焉の地が妙高の赤倉温泉だったという史実を知るに至って、妙高という土地には意外なめぐりあわせがあるものだと膝を打ったことがあります。高田藩が地元の請願に許しを出したのが、210年前の1815年。その翌年、一本木新田という場所に引湯が果たされました。運営は高田藩によるもので、赤倉温泉は当時日本唯一の藩営温泉だったそうです。

ここに天心が山荘を構えるより10年早い1898年、天心が開講していた日本美術院の絵画部が東京の谷中から茨城県の五浦に移転しています。これは天心による美術院そのものの移転構想におけるテストケースで、実際にその最終候補として選ばれたのが赤倉の地。「世界一の景勝地」と惚れ込んだ天心は、赤倉温泉をパリ郊外で世界的画家が住み、多くの作家を輩出した「バルビゾン」に見立て、衰退しつつあった日本美術院を移転させ芸術文化の里にしようと考えたのです。

しかし当時の交通の便の悪さから構想は実現しませんでした。天心は赤倉の山荘で1913年9月2日に病の末永眠しました。今や鉄道も高速道路も充実し、東京から行き来しやすいと外資系リゾート開発が乗り出す時代。してやったりと、天心はあの世でほくそえんでいるのか苦笑いしているのか想像の域を出ません。「海の五浦、山の赤倉」、五浦が実験実践できながら本院移転に至らなかったのは残念ですが、天心の遺骨は赤倉にはなく、東京の染井墓地と五浦旧居の一角に分骨埋葬されています。

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