30℃越えは無くなったものの、都内はまだ昼下がりには汗ばむ陽気です。
ふらっと入った喫茶店では、軽快ながらも気だるいジョージ・シアリングが流れていて、午後だというのにモーニングセットを注文できるという。
それで、こんなしょーもないタイトルを思いついたと。
ウルトラマンゼロのとーちゃんが未だにかみさんの素性を明かさないうえ、従弟のウルトラマンタロウがこれまた母親謎の状態で倅のタイガをデビューさせるという、ウルトラ族の世代継承が相次ぎますが、実はその先駆けは初代ウルトラマンなのです。日没近くの都市で、あの宿敵と対峙する姿を高層ビルのフロアから見つめている女性こそ、初代の恋人。ただしこのとき二人は、度重なる仕事で時間を作れない初代のせいで、険悪な雰囲気でした。
そんな、初代ウルトラマンが地球人女性に恋をする話なんて聞いたことないぞと思われましょうが、これこの通り、プレゼントなんかで気をひいてみたり、パーティーでピアノ演奏している彼女のもとにダンスをリクエストにやってきたりしているのです。出逢いは好調、だけど次第に、仕事に実直すぎる初代に対して彼女の方が不満を募らせていくのです。でもって険悪極まりなくなって今度こそは埋め合わせ、というときに宿敵が出てきやがるという・・・
このエピソードは2005年頃、Nobodyknowsが作成した「メバエ」という楽曲のMVです。Nobodyknows – メバエ で動画を検索していただくとして、年次から考えてもウルトラマンゼロ登場以前の、しかも突然父親になってしまっていたウルトラセブンとは異なり進行形のロマンスが描かれていました。しかし残念なことに、今残されている動画は前後の部分がカットされており、二人の恋の顛末がわかりません。何てことしやがるんだと編集者のセンスの無さにあきれてしまいます。
ヒロイン、まだ「オダギリジョー夫人」にはなっていない頃の彼女です。いやそこじゃない。その下の「メバエ」役。この子役ちゃんの存在によって、「皆まで言うなの後日譚」が、本当はあることがお判りになるでしょう。やるじゃねーか初代ウルトラマン! その後のこの子を主役にして史上初のウルトラウーマン番組を・・・
ずーっとずっと昔の話、湾岸線が事故渋滞だったため千葉から京葉道路で都内へ入ってきて、C2に乗り換えたかったのにジャンクションが無かった。
てなことがあったのですが、そこにあってほしかった小松川ジャンクションがようやく出来上がってきました。ま、都心からだと必要なさそうですが、千葉からうっかり入ってきちゃうと結局都心近くまで持って行かれて脱出に時間を食ってしまったので、千葉方面から中央環状線に乗り入れられるのは便利です。
それにしても外郭環状が湾岸線や京葉道路とつながってのことか、都内区間の京葉道路も時間帯によっては誰も走っていない状態が体験できるようになってる・・・
モルトバール。いい響きです。が、お察しの通りマーダーホエール、キラーホエールといった意味のドイツ語。決して響きだけの言葉ではないのですが、こう(便宜的に)名付けられた、自らの名前を明かさない一頭のシャチは、なかなかにパンクで面白い変な野郎です。
こういうアプローチはなるほど直球投げても編集者がパスボールしそう。pixivからデビューしてくるというところが、ある意味恵まれた時代かもしれません。
が、恵まれているだけではない、今まで無かったよこういうの、といった発想も豊かだし、飼育員とのコミュニケーションを通してシャチの生態をけっこうわかりやすく描くインテリジェンスも高い。なにより飼育員のジャクリーンが、その辺にあふれている萌えキャラでなくて、洋画に出てきそうないい感じの雰囲気を纏っています。
ネット配信でのこれを知りませんでしたが、やっぱり行き着くところは紙媒体の書籍として世に出ていくことだよなと思います。コミック化されたことで、きっとこの漫画は魅力の広がりを手に入れたはず。
それにしてもこの本で久しぶりにシャチの博物学を勉強させてもらいましたが、僕は「オルカ」という一般呼称より、英語圏で使われている「グランパス」の方が好きなんですよ。ところが最近はハナゴンドウの属名に固定されているそうで、シャチには使われなくなっているとか。
・・・えー?
破裏拳ポリマーが「ポリマーグランパス」という形態名称を使ったその昔、新しくてかっこいいと思ったのになあ・・・
千葉県のリポートなど一個人がしたところで何の役にも立たないのですが、昨年の西日本豪雨や記憶に新しい災害に対して、今回の、現場を除く国の対応は確かに鈍いと感じます。「台風なんてちょくちょく来るものに対して大規模災害の前例を作りたくない」のか、「土砂災害や河川氾濫ではなく倒木と電柱電線の倒壊はその管理者の領分」などという解釈なのか。そのような状況下で、復旧見込みが甘かったとはいえ、東京電力サイドは矢面に立たされながらも良くやっていると思います。
人の悪口を言ったところで状況が好転するわけじゃないので、千葉県の緊急物資の多くが手つかずの話だとか知事と国とのパイプが弱いとかは余所様に任せます。でもこういう事態において、県よりも基礎自治体、市町村の首長にこそその手腕が求められるのです。かつて雲仙普賢岳が火山噴火の災害を起こした時の島原市長さんのように、です。
システムが変わっていなければ、全国市長会には災害対策会議組織が存在し、全国各地で様々な大規模災害が生じたとき、被災地の首長が現地対策本部長となり、熊本市長さんが全国市長の支援活動などを総括指揮するポジションに立つことになっていたはずです(市長会総会などの事務手続きにより、総括監督者が後退していなければ)
さらに、これまでいろいろな災害被災した市長の何人かにも、副本部長的な権限が与えられ、物資や人員の送り出しなどについて縦横のネットワークが稼働することになっています。昨年、このシステムが立ち上げられています。
問題は、この組織が市長会の枠組みなので、町村レベルに対してどのように手を差し伸べていくかですが、まさか町村は関係ないなどと言いはしないでしょう。この組織のスキルは、あらゆる災害で被災経験した主張が司令塔や幹部スポットに立つという、知見経験を活かせるところにあります。そして主張後退していなければ、そういった主張陣には互いに助け合った横のつながりも役立つのだそうです。
この仕組みを立ち上げた全国市長会長さんは相馬市の市長で「うちが未曽有の災害に見舞われたとき、全国の首長たちがいち早く支援を申し出てくれたり、当人自ら物資を持って駆けつけてくれた。この恩義は全国各地に分け隔てなく返さねばならない」と、経緯を話してくれました。
東北のあの震災の時は、偶然にも、霞が関でも切れ者の課長が東北地方整備局長に赴任した直後の発災。もちろん被災県知事たちとのやりとりもあったのですが、多くの対応は被災地市町村首長との直接の談判と応対によるものでした。書籍が出ているのでそれに詳しいことですが、「私を国の局長と思わず、闇屋の親父だと思って何でも言ってください」という書簡を部下に持たせて派遣したことは有名です。
寝られているの? と尋ねたとき、「まあ五分とか十分くらいね」と、執務室に置かれているシュラフを指さしながら、「だけどうちの部下たちの行動が何も報道されない」と憤慨していたのを思い出します。今でこそ東北地方整備局は新しい合同庁舎に移転していますがあの頃、局舎は、よくあの地震で倒壊しなかったなあというぼろな建物でした。
などという昔話はそれこそ意味がない。
災害経験のない被災首長もいることでしょう。だからこそここが踏ん張り時でもあります。なぜなら台風シーズンはこれからです。再び市長会長の談を振り返れば「二次被災とそれに関連した死者を出してはならない。その目を行き届かせることができるのは基礎自治体でありそれが仕事」
偶然ですが、今の南房総市長さんは、全国道の駅連絡会という法人の初代会長職にあります。道の駅は各地でここに運営されている施設ですが、そのバックヤードにもこの法人を介したネットワークがあり、災害時に前線基地として活用される仕組みがあります。これらのインフラがどれだけ活用されるかも、今後の復旧復興のカギになります。
霰の同級生、Nくんから僕とウエストウインの島社長宛にメールとカブ旅の写真が届きました。
経過を記すと、どうにか宮崎県の実家にたどり着き所要も済ませることができたそうで、帰路は時間も残されていないことから神戸までフェリー、日本海側へ自走し敦賀からまたフェリーで新潟県へ戻る予定で、福岡への立ち寄りは叶わなくなったということです。
残念ですが無事に帰り着くことの方が優先されますので、勝手に立った応援団は静かに見送るのみ。いやいやかなり楽しませていただきました。
ということで、Nくんより。
今回の旅行に際して急な話にも関わらず、御二方には多大なるご配慮を賜り、誠にありがとうございました。
恐らく帰りは時間と金銭的都合から新潟~神戸と敦賀~新潟間はフェリーで、神戸→敦賀を走るだけとなりそうです。
島社長、お声をかけて頂いたのに寄れずじまいで申し訳ありません。
今回の敦賀→宮崎間のスーパーカブカスタム50での旅行は1年ほど前から計画しておりました。
当初は新潟から走る予定でしたが、1380kmという数字に少々怖気づいた(飛行機だと900kmなのでそのくらいだと思っておりました)ことと、7月の初めに亡くなった祖父の四十九日に間に合わないことから、敦賀までフェリーでショートカットすることになりました。
購入から1年経つ1996年産ものですが、大学の調査で糸魚川までの片道180kmを何度も往復していたので、そこそこの自信と慣れたころの慢心が危ないという想いを持ちながら走りました。
なんとかなって良かったです。着いたときはしばらく乗りたくないとも思いましたが、3日も経つと忘れてしまいました。
機会があれば来年の夏かなと思っています。
それでは。ありがとうございました。