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  ~懲りない傾向~

それは宇宙道徳に背くというものだ

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1956年1月29日に封切られた『宇宙人東京に現る』は、地球人類の核開発を警告しつつ、太陽系に接近する彗星Rによる地球の危機を「宇宙道徳」に則って知らせにやってきたパイラ人と地球人の物語でした。核抑止に出現する宇宙人や異天体の衝突危機というプロットは、この映画より5年前のアメリカ映画『地球の静止する日』『地球最後の日』が先んじていますが、この2本は今考えると、当時激化していた朝鮮戦争への反発だったようにも思えます。

『宇宙人東京に現る』は、世界的な核の危機に対して、当時唯一の被爆国である日本に理解を期待しパイラ人がやってくるお話でした。まあこんな異形ですから東京はパニックに陥るのですが、パイラ人にしてみれば地球人の容姿こそ醜いという文明感覚の違いも真新しかったのです。

設定の話はさておき、絵空事とはいえ友好的宇宙人の力を借りた核抑止や平和維持のメッセージが込められているのなら、今、こういう映画を大陸の方でドンパチやってる政治家に、息抜き半分で鑑賞していただきたい。あんたらのところにそんな親切な宇宙人は来てくれるのか?とも問いたいです。

最初の『ゴジラ』の2年後という封切りでしたから、比較されたらトンでも部類の映画かもしれませんが、作った大映にしてみればそこそこ真面目に取り組んだ作品だったと感じます。意外にも当時、空想科学映画を片っ端から観ていたというスタンリー・キューブリック監督が、「俺もこんなの作るぜ」と触発された映画の一つが『宇宙人東京に現る』であったことは有名なエピソードですが、そこから『2001年宇宙の旅』ができちゃうのも凄い話です。

ここからは蛇足ですがパイラ人。四十代半ばの岡本太郎氏がデザインしたもの。有効かつ極めて知的な宇宙人ながら、体内のほとんどが眼球じゃねーか。この11年後に成田亨氏のウルトラマンが登場してくるわけですが、同じ宇宙道徳観念を持ちながらも、世代が交代するとかくも宇宙人の容姿が変わるものかと驚きです。成田氏の造形に忠実なウルトラマンはさらに55年を待たねば実現しませんでしたが、その間、βカプセルひとつとってもデザインセンスは進化しています。

未来歴史2199

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今から170年後の春、日本列島に小惑星に偽装された爆撃物が落下します。遊星爆弾と称されたそれは世界各地に降り注ぎ、地球文明の科学技術と防衛能力では防ぐことはできず、劣勢のまま未知の外宇宙軍事力との戦闘状態に陥ります。

それから6年後、冥王星宙域戦闘のさなか、外宇宙航行速度をはるかに超えた宇宙船が火星に不時着します。

この宇宙船飛来は地球側に予告されていたらしく、火星において待機していた2名の兵士によって落下地点の探査が行われますが、ただ1人の乗員は絶命しており、飛来元から届けられたカプセルが改修され、乗員は火星後に埋葬されます。

これが今から176年後の1月17日に起こる出来事。ただし「2199宇宙史準拠」の未来歴史です。

現在消息不明中

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本日は、22年前に木星軌道で行動不能に陥った宇宙船ディスカバリーの統合管理コンピュータ「HAL9000」(Heuristically programmed ALgorithmic computer 発見的なプログラムをされたアルゴリズム的コンピュータ)の誕生日だそうです。AI搭載型のHAL9000は1992年あるいは1997年の今日、稼働状態となり2001年には木星探査船の航法や館内管理全般を担うほどに成熟し、2010年にはモノリスを介した「意志」によってモノリスに取り込まれます。

そこから先は、2061年まで人類との間接的再会はありませんが、2001年にスターチャイルドとなったディスカバリー元船長のディビット・ボウマンと行動を共にしているようで、この時点で単なる人工知能ではなくひとつの知的生命として「意志」の認知を得たと思われます。

この歴史において、木星はルシファーと呼ばれる太陽系第二の恒星となっており、本来なら空には2つの太陽が見上げられるはずですがそんなことは確認されていません。それはおそらく、モノリスの力によって火星以遠の時空情報が遮断されているからではないかと考えられます。HAL9000の消息もまたすべて失われているものの、人類はAIの技術をさらに進化させ家庭レベルにまで拡大を進めています。

 

 

実写版 ←私の嫌いな言葉ですけど

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「機動戦士ガンダム 水星の魔女」が我が家では父娘で盛り上がる話題になっていて、お互いにモビルスーツの概念や基礎理論についていけない娘と、最近の声優陣がさっぱりわからない父親とで、なんで盛り上がれるんだ? という不思議な環境が生まれております。なんと言っても1995年生まれの霰が「水星の魔女って少女革命ウテナ(1997年)だよねえ」と言い切ってしまうのがとーちゃん的には「何で知ってるんだ?」の謎なんですが。

一見、これはかみ合わないだろうと思われそうな水星の魔女談義で、いきなり共通見解になったのが「あれを特撮ドラマにしたらミリオネ・レンブランは池田エライザで、スレッタ・マーキュリーは大原優乃あたりでいいのではないか」というところでした。

あー、何の思慮も配慮もない父娘のたわごとですから、異を唱えられても不許可です。このたわごとのやり取りで大事だったのはそこよりもむしろ「なんで原作なりアニメなりを俳優に演じさせようとすると『実写』って言うんだろうねえ。ガンダムなんて『特撮』でいいじゃない」という見解の一致でした。

それともっと大事なことですが

水星の魔女の俳優演技ドラマ化って話は一切ありません

ただ、先日の放送を見ていて、銃火器であれ戦闘機であれモビルスーツであれ、戦争に使用することは命を殺めるものだと痛烈に再認識させられて、よくもまあ日曜五時台にあんな描写をやったもんだよと甘いことを思うのですが、そういった描写にこそ実社会と照らし合わせの上嫌悪感を抱くべきだよなあとも考えさせられました。

だからですね、仮に女優使って特撮版水星の魔女を作る機会があるのなら、ああいう路線からは乖離して、学園内熱血ラブコメの番外編エピソードでまとめてもらいたいと、つくづく思いましたよ。

二兎を追う者は一兎をも得ず

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新年おめでとうございます。という割にはなんかこう、これ使っていいのか?の表題にしました。なぜかというお話をだらだらといたします。

本年、スズキエスクードは誕生35周年を迎えます。どこかの雑誌が昨年と勘違いして既にそんな記事を見てしまっての2023年は、まあいいや、ESCLEVの創設20周年も同時に進めれば。などと二兎を追おうとしたのがいけなかった・・・話ではありません。

1988年にエスクードがデビューした後、当時群雄割拠していた四駆雑誌はこぞってこれを取り上げてくれました。そのなかで、あまりにも専門的に評価され、乗用車然とした四駆の中途半端さも示唆されたのですが、4×4マガジンにおいては「スズキは二兎を追いかけ丸々と太ったウサギを手に入れた」と書いておりました(確か同誌だったとあやふやな記憶)

デュアルパーパス性能のどちらに重きを置くかで、ゴリゴリのクロカン四駆テイストは薄まっていかざるを得ませんが、結果的に昨今のSUVのクロスオーバー性を35年も前に提言し、記憶に残る1台を作り上げたと言えるわけです。これぞまさしく一挙両得、一石二鳥の逸話の始まりでした。あっ、そっちを表題にすればよかったのか。でもことしは卯年なのでそうもいかない。

そうは言っても、ゴリゴリでなくても往時のクロカン四駆から四代目のハイブリッドまで、世の中に翻弄され、時代の先取りを模索しなければならなかったエスクードは、三代目以降少しずつユーザー間の「言葉」も通じなくなってきました。初代なんてイメージでしか知らない人々が多数です。どことは言いませんがヒルクライムレース用のマシンをサーキットに持ち込んだからと言って、エスクード自体はあんな扱いに耐えられる四駆ではありません。だいたいがスズキのエンジン積んでいないし。

ハイブリッドへの移行時、世間では一時期廃盤などと揶揄しているけれど、あれはメーカー側の戦略ミスだと感じています。ブランド自体が35年続くという慶事は、やはり讃えるべき出来事だと思うのです。事程左様に二兎どころかあまりのマルチパーパスな舞台にわたって走っているのがエスクードのブランド力なのです。

 

 

 

hyvää uutta vuotta

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遠つ御祖の産土よ

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「すずめの戸締り」を観てきた霰が配信ものの「天気の子」を茶の間で流しながら

「うーん、そうか。前作のグレーゾーンぎりぎりにはみ出たところを『すずめ~』は上手に回避しているなあ」

とか言うわけです。世界観は好みながら、ある一つの設定が僕は嫌いで、「天気の子」は低評価なのです。

そんな話をしたことがあったからの感想なのだろうと思い、どんなんだか知らないわけにもいかぬと、いわゆる新海誠作品を初めてスクリーンで観てしまいましたよ。意外ととられましょうが僕は「君の名は。」すら劇場では観ていないのです。

エンターテインメント性を高めてからの3作目として見ると、数を重ねるごとに物語がわかりやすくなっていると感じましたが、それ以前の5作と「君の名は。」が比較されたときのように、マニアックな部分が薄れているのも仕方がないかと思い、それとは引き換えに毎回扱われるカタストロフなところはずっと現実に寄せてきた。

内容として触れないことが観ていない人へのルールなのですが、僕は東北の8年間で、幼少期のヒロインのような小さな子たちを何人も見てきたので、「心が欠けていても生きていくことはできる」という新海監督のメッセージは功罪両方に突き刺さります。物語の細かいところを突っ込んでも無粋なだけなので、「そんな境遇でも生きていかなくてはならない。のではないの?」とだけ言いたいけれど、前作における主人公の扱いよりはずっと良かった。

 

12月の雨

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荒井さんでも松任谷さんでもどっちでもいいんですけど、ユーミンが歌業半世紀だとかで、もうほとんど毎日移動中のFM放送から彼女の楽曲が流れない日が無い。

といって50周年アルバムを買うほどかと言えば興味は薄いなあと、流行に乗り遅れてます。しかも引き合いに出しているのはセカンドアルバムだし(12月の雨が収録されているからです)

それでもすごいなあと感じるのは、家族の誰かの車に乗せてもらって、配信だったりCDだったり様々な楽曲を聴いているなかで、かのラジオ放送企画とは関係なく、なにかしらユーミンが入ってくるという事実。だって彼女がデビューした頃、僕は小学生ですよ。

ところが最近、彼女の実年齢をあらためて計算して愕然(失礼なやろーだなあ)。この歳になってみると、大した年齢差ではなかったという現実。僕と風花さんくらいしか離れていねーんだこれが。

猫は飼わねど高楊枝

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何が高楊枝なんだかさっぱりわかってませんけど、環境上我が家では犬も猫も養えないので、時折家族の誰かが「猫かわいいよねー」と言い出しても却下となります。

だから猫題材の漫画を探してきては留飲を下げさせるのですが、うちの家族はますむらひろしさんのようなキャラが嫌いだと我儘を言いやがります。

数年前には琥狗 ハヤテさんの「ねこまた」が家庭内ブレイクしまして、要するに猫のキャラがかわいいかどうかが肝だと。そんな要望を受けてヒットしたのが清水めりいさんの「猫塗り屋」。一冊完結(今のところ)の短い物語ですが、これは面白かった。アニメ化してもらいたいねえとも家族は言うので誰が手掛ければいいんだ?と尋ねると、「これに限ってはジブリじゃダメ」だそうです。

うんうん、わからんでもない。

寂しさよりも君は寂しい

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「超人ロック」と出会ったのは高校生の頃でしたから、僕が持っている単行本というのは軽印刷物の1、2巻の「復刻版」が最も古く、その後の新書版4巻を経て、少年キング版を長いこと買い続けました。最近ではどこから出ているかも確かめず、書店の棚で見つけたものを購入するのが楽しみでしたが、昨日、聖悠紀さんが10月末に亡くなられていたというニュースを見つけて、ここ数日の有名人の訃報とともに肩を落とす週末となりました。

晩年は闘病生活を過ごされていたそうですし、危篤状態に陥った逸話も漫画に描いていたので、いつか来るのだろうなあと感じてはいましたが、残念なことです。「超人ロック」に限らず「ファルコン50」「ペアペアライサンダー」など、独特の線描とメカニックデザインに魅了されたものです。ここ数日、ここの古い記事で「切ない大団円」がやたらとヒットしていたのは、ファンの方々の検索なのでしょうか。

星よりも永い命を持つ超人の物語は、どなたにも引き継ぐことなく未完となった方が、真の意味で永遠の作品になるのではないか。そんな思いで合掌しております。

そしたらば!

「ケンタウロスの伝説」を描いた御厨さと美さんも数日前に逝去されたと。

御厨さんは、それこそ「ケンタウロス~」以前、小学館の少学〇年生(主に高学年版)内で、読者欄を主体に子供の悩み相談やらちょっとした性教育やらの談話のようなコーナーを受け持っていて、それが僕のとっかかりでした。十代過ぎて「避けた旅券」や「イカロスの娘」などで再会したのが嬉しかった。ご冥福をお祈りします。

加筆で失礼ながら、桜多吾作さんまでもが亡くなられました。本家版とは異なるテイストと展開で圧倒的なパワーを見せつけてくれたマジンガーシリーズは、当時の少年にけっこう社会問題をも教えてくれたのです。超合金の黒いやつは勇者ライディーンからでしたが、そもそもきは桜多さんのグレートマジンガー(イミテーション)が元祖でしたし、グレートを量産機として描いたのもモビルスーツより早かった。合掌です。