人によって時間の感覚は変わるとおもいますが。 おっちゃんとおばちゃん二人暮らしプラス猫ずの 我が家では時間の流れが曖昧でしてねぇ(笑) もう、そんなに経つのねぇっていうのが正直なところ。 でも、忘れられないし忘れちゃダメよね・・・
もう、なのか まだ、なのか
嬉しい知らせ
後任の後任から「熊そばを食ってきましたよ」というメールがあり、栗原の「狩人」がまだ暖簾を掲げているのを知ることができました。昨年、「帰還5年目の日」を書いた折、民放テレビ番組にて紹介された同店の主人が、高齢になったこともあり店じまいを考えている旨の発言をしていたので、残念に思っていたところでした。ご高齢であることは代えられませんがまだお元気でおられる。それだけで嬉しいし、なんとか食いに行けないかなあとも考えてしまいます。
鉄道のない栗原あたりは宮城県北部で、積雪やら凍結やらのリスクがあったかもしれない。車の運転に不慣れな後輩も仕事とはいえ行くだけでも大変だったろうけれど、「熊なんて初めて食ったけれどうまかった」と感想をくれたのはありがたいことです。
沢山の人々が亡くなり、数えきれない誰かが苦しんだ震災から、自分自身はずいぶんと距離を感じるようになって、国道6号沿いにあの日から取り残された見知らぬオートバイの様子も見に行く機会が無くなりました。各地で相次ぐ災害が話題の上書きをするため、東北のことは東京ではほとんど聞くこともないけれど、それはそれで仕方がない。熊そばの算段を考えながら、2011年3月の自分のブログを読み返してみます。
春は名のみの風の寒さや
怪獣映画の矜持
1995年3月11日に封切られた「ガメラ 大怪獣空中決戦」は、当時エンターテイメント路線に回帰しながら現代的な考証をそれなりに施していた「vsゴジラシリーズ」を、さらに一皮むいた出来栄えを持っていました。巨大生物のスケール感をもたらし、それがなぜそこに現れたのか、現れるとどうなるのか、そもそもそいつらは何者なのか。後に三部作となっていく「平成ガメラ」の幕開けとして、温故知新な映像とドラマがちりばめられていたと思います。
だからなのか、全てが描ききれない大盛りを超えた特盛りの中でも、怪獣映画でやるべきこととやりたいことはきちんと詰め合わせていた。言い換えると「やりすぎていない」ところが良作なのです。「2」「GⅢ」ではガメラの強さがインフレしてしまう部分もありますから。誤解なきよう加えると、僕は「ガメラ2レギオン襲来」なんかは大好きです。それでいて1作目が「ある程度怖い怪獣映画」を描いたことには脱帽しています。vsシリーズになったゴジラにはそういうものが失われていたし。
もうひとつの幸運、この映画で美しく大人になった中山忍さんの姿を見られたことは言うまでもありません(先日、ウイングマンでお母さんやっていた。それほど歳月が過ぎてしまった)。亡くなられた美穂さんには悪いけど、「ねーちゃんよりいいよな(「ラブレター」を除いて)」と思っていました。怪獣には美女です。キングコングの時代から。やるじゃねーか金子修介も樋口真嗣も(笑 金子さんなんかは出自がモノを言ってるし)。作り手のプライドを垣間見る怪獣映画でした。
花見をやりたいのですが
お知らせを出したもののノーリアクションなんで、新年会に続いてまたも不発ですかね。いま、基地住変は雪景色ですが開催予定の20日までには気温も上がって開花してくれる・・・んじゃないかなあと甘い見積もりで準備しております。
固定ページのとおり、20日10時に茨城県笠間市・あたご天狗の森公園大駐車場集合で、カフェFORESTHOUSEにてお待ちしております。
以前のバーベキューというわけにはいかなくなりましたが、花粉対策はできるということで、来られる方はコメントを入れていただくか固定ページにあるアドレスまで直接メールをください。可能であれば林道を走っている風の(なんだそれは)撮影もさせていただきたいです。
よろしくお願いいたします。
来ようと思えば来られるけれど
先月末に事務所が移転し、港区まで走ることが無くなりました。と、思っていたら、BLUEらすかるΩをイタリア街で撮ったことが無かったなあと気づき、わざわざ行ってしまう愚か者。一歩間違うと不審者扱いされそうな、世知辛い世の中になりました。が、この時間帯から二時間もすると、自分のクルマをかっこいい背景で撮りたい男の子が三々五々とやって来る場所でもあります。たまに広場のまんなかに車両を入れちゃう大馬鹿者もいます。
東京に戻ってきたころに比べてこの界隈もイタリアっぽくないビルが増えていて、明るい時間じゃ撮りたくないなあと感じています。来ようと思えば来られるところだけれど、たぶんここは自分の中では見知らぬ街へと変わっていくのでしょう
寒い中にも春の兆し?
口惜しいのなんのってこういう予告が・・・
「TD01Wクラスの大きさで、つまりジムニーシエラのボディをストレッチして、顔立ちを変えて、それをエスクードとして出すという手は、5ナンバークラスとしてはニーズがありそうですが」(アピオ会長 尾上茂さん)
「ジムニーとエスクードは、共通化という考え方に持って行ってもいいでしょうね。駆動系を1600から2000ccまでに対応させていけばいいので」(日本ジムニークラブ会長 二階堂裕さん)
この対話は、2012年夏にアピオにて対談していただいた、スズキエスクード誕生25周年企画(2013年5月に公開)収録用の終盤に交わされたものです。インデックス一番下の「Pioneers’ talk」を読んでいただくと、最後に出てきます。25周年企画はもうほとんどこの対談が目玉でした。当人たちでさえスーパースージーなとでやっていなかったくらいだから。
ここで尾上さんが言っているジムニーシエラとは、JB43Wのことを示しています。まだ74系など世に出ていない頃の話です。そんなの誰でも思いつく、と言ってしまえばそれまでながら、尾上さんは潜在的な需要を掴んでいたのです。こういった対話を材料の一つにして、二階堂さんはJB64の開発に際してコンサルティングをやっていたので、登録車版ジムニーの方向性についても言及していたでしょう。
惜しむらくはエスクードが再登場するのではなく、ノマドのサブネームが復活する経路となっていったことで、このきっかけとまでは言いませんが、ESCLEV企画の対談の中で予告されていたことが、なんかもう口惜しいんだよ。