ウルトラシリーズ放送開始50周年の企画として進められてきた感謝祭による名作、人気怪獣の投票結果が、いよいよ本日発表となるようですが、自分で思い出した「名作回」もいくつか、中間発表時に残っていました。この投票がなぜ「ウルトラQ」から「ウルトラマンレオ」までで範囲指定されたのかは解せませんが、まあ言われてみればしみじみと見ていたのはその辺まで(よくよく考えてみると、「エース」からは毎回見ていなかった)だったかもしれません。
そんなわけで、シリーズ7作品から秀作を探し出してみると、一番迷うのは「帰ってきたウルトラマン」の内容でした。世に言う「傑作選」を除外しても、二つといわず六つくらい好きな話があるし、近未来の地球(初代やセブン)ではなく現代にウルトラマンがいるとこうなんだ。というイメージの近さがあります。それは初代、セブンの中からも多数の秀作を抽出できるのですが、書き始めたらきりがないので絞ります。
バルンガ(ウルトラQ)
厳密にいうとオリジナルではなくて、海外のSF小説に元となるアイデアが存在するのですが、とにかく何やっても攻撃が吸収されバルンガの成長を促すだけという打つ手のない状況に、最後の手段で太陽に追い出して腹をこわすほど食い尽くさせ自滅させようと思いつく展開。えっ、太陽を食い尽くされちゃったらどうするの? と、本気でぞっとしたのがなんとなくトラウマ化してました。後にたがみよしひささんが「滅日」の中でこのモチーフを出してきた(こちらはヒトの無意識の産物)ときには、トラウマどころか「おーバルンガだー」と喜ぶくらいには克服してますが。
さらばウルトラマン(ウルトラマン)
超人の活躍の最後をどう描くか。そこに尽きる回。そしてウルトラマンが決定的に負けたというエポック、物語の途中にインサートされていたバラージの伝説を裏付けるように、超人が「彼」一人ではなかったという世界観の広がり、「彼」が去ったあとハヤタの記憶もファーストコンタクトの時点で欠落している結末。とまあ今だからそのように論ずることができるのだけれど、超人でも勝てなかったのにハンドガンから発射した小型弾頭でゼットンがやられちゃうってそりゃないぞと、子供心には思った。
狙われた街(ウルトラセブン)
怖い物語でした。侵略者が無言で街を混乱に陥れていくならこれはありだなと。しかも人間同士の信頼感を破壊していこうとするメトロン星人に対する、ナレーションのカウンターメッセージが「われわれ人間はまだそれほどお互いを信頼しあっていない」と告げるところがまた子供として不快に陥る怖さもあった。いずれにしてもチブル星人の「アンドロイド0指令」と双璧をなす作戦です。と、思っていたんだけど、「酒飲んで人を傷つける事件のほうが、煙草のトラブルで殺人まで、というケースより絶対に多い」と、今だとちゃぶ台ひっくり返して否定したい。
ウルトラ特攻大作戦(帰ってきたウルトラマン)
子供のころから「自然災害と戦うウルトラマン」の構図をよくイメージしていました。それはシーモンスとシーゴラス戦で津波、竜巻を描いていますが、台風そのものに対して岸田や坂田が唱える論理のアプローチが面白かった。MATが彼らなりに作戦を立案し怪獣を押さえ込む場面もある。それが成功しなかったのは不可抗力でしかない。惜しむらくはバリケーンという怪獣を出さずに、嵐そのものと戦う姿を見たかった。でもウルトラマンってバリアで防いじゃうからなあ。
さようなら夕子よ、月の妹よ(ウルトラマンエース)
制作サイドのいろいろな事情が重なっての南夕子降板を、ドラマの上でこれほど斬新に構築してしまうところに、ある意味俳優への思いやりが感じられた。いや、ありえないですよ月星人なんて。だけど輝夜姫という先人もあるわけだし。なにしろ「エース」という作品はTAC内部での初期の隊員間信頼度が低すぎることと、歴代のウルトラマンを危機に陥れ(タロウもだけど)視聴者を食いつかせようとする意図が嫌いだったので、「エース」の枠を削って「帰ってきた」からもう1話書き出したいところです。
ウルトラ父子(おやこ)餅つき大作戦!(ウルトラマンタロウ)
「ウルトラマンタロウ」は、タロウなんて名前からしておとぎ話のウルトラだと解釈していたので、「エース」の苦肉の策設定(南夕子)をこうも鮮やかに再登場させてしまうところに拍手でした。いや、おとぎ話だと思って見てなかったらまあ耐えられない。ところで、あの移動体通信会社のCМの三太郎シリーズに、ウルトラマンタロウも出てきてくれないものでしょうかね。今年こそそういうタイミングだよね。
セブンが死ぬ時! 東京は沈没する!(ウルトラマンレオ)
うんざりするほどスポコン路線が始まるとは思いもよらず、異星人同士がまったくの異星で邂逅する幕開けが「何が始まる?」と期待させた初回。ただもうなんでこんなに終末説投影するような暗い重いスタートを切るのかなあと憂鬱になる第1話でもありました。それにしてもウルトラマンレオの角の造形はかなりの秀作だと思います。全然獅子の鬣には見えないんだけどね。
秀作なウルトラ怪獣
ペスターとタッコング
↑なんでデカ文字・・・まあ要するにゴジラ型怪獣ではない造形の斬新なところがいいのです。特にペスターは落書きもしやすい形でした。タッコングは・・・冷静に考えればどこがタコなんだよと突っ込み入れるべき姿かたちですが、あれほどかっこいいタコは見たことがない。
現代(現実)にいる、か・・・沢村忠に「あんたMATの郷さんでしょ?」とかドリフの歌が流れていたり(そこかよ)
どっちにしても空想科学ものだけど当時の世相とかを色濃く反映していくようになってますよね。
それにしてもレオがあまりにも、ねえ・・・今となっては畳むつもりで始めたのかって気すらします。
まさにそこですね。
「史上最大の侵略」でナイター放送が聞こえてくる意図の不明さよりも潔いんです。
そのせいで初代よりも古い時代というパラドックスを抱えてしまいましたが、帰ってきたウルトラマンの脚本の投影の仕方は、ある意味セブンよりも深みがあります。
だから「坂田次郎隊長のMAT」というエピソードを今、見たいんだよねえ。
メトロン星人の時に80年代位?と振っておいてV9時代の巨人戦(?)は無いですよね。
当時の娯楽もの番組制作全般で世相の反映っていうのが言われているとはいえ、
脚本演出はいい仕事してますよねえ。
いまMATやっちゃうと・・・変にパワハラとかそういう方面で取り上げられそうで嫌な感じが(汗)
当時シリーズ構成というポジションが一つの番組の中に無くて、そういった部分を脚本家がすべてまかなっていたんでしょうね。
これはセブンに限らず帰ってきたも同じだったと思います。
で、セブンのころに玩具関係ではサンダーバードが大きなシェアを占めていて、怪獣人形はまあだめなわけで、その後第二期までブランクができる。でもウルトラホークは模型が売れた。
そういった背景をもって帰ってきたを演出する際、MATを苛め抜く演出は適当ではなかったはず。アロー、ジャイロ、ビハイクルと、そこそこ売れた(というか、買った)。
だから新生MATは過去の経験を生かした精鋭部隊。と、脳内では設定してます。
ゴジラ60周年、ウルトラマン50周年で、怪獣ブームが来そうですね。
先日、大巨獣「ガッパ」がテレビ放送されました。初めて見られそうです。録画したので近いうちに鑑賞します。
ぼくなんかは完全に再放送世代で、まともに見た記憶がありません。高校生の頃に、長野県でウルトラマンの再放送があって、鑑賞しました。ウルトラセブンは中3の時に、最終回を見た事があります。
初代ウルトラマンに限っていうと、ぼくの一押しは「まぼろしの雪山」ですね。純文学的なストーリーでした。あと「怪獣墓場」も良かったです。あの挿入曲が印象に残っています。
ウルトラマンティガでの、クリッターとの攻防もかなり考えさせられるものがありました。
ウルトラシリーズの魅力は、子供向け番組でありながら、大人が見ても考えさせられる、深いテーマが盛り込まれている点ですね。セブン以降も見たいですが、なかなかレンタルしてみる時間がありません。
また再放送があるといいのですがね。
「まぼろしの雪山」の構成は、後の「ノンマルトの使者」に通じるところがありますね。
シリーズを通して「怪獣プロレス」だけではないエッセンスをどのように盛り込むのかが産みの苦しみだったことでしょう。ここ数作は玩具売らなくちゃ、なアイテム至上主義になってきてますが、ウルトラマンネクサスみたいな力作もあるので、見てみるといいですよ。