親の兄弟たちからあてがわれたビートルズは自分のものじゃなかったし、教室の全員で歌わされるカーペンターズも違うと感じていた。
それらが嫌いだということではなくて。
クラスメートの女の子たちが、Queenに没頭していたけれど、深夜放送のラジオから半端な長さで流れている「ボヘミアンラプソディー」の楽曲は、僕にとってはうるさかった。
『オペラ座の夜』がリリースされて年が明けて、教室でのフレディ・マーキュリー熱の右肩上がりにうんざりしていた学校と別れての5月、真夜中の田舎では蛙が大合唱を始めていた。そんな時間帯にラジオが「さよならハリウッド」を紹介した。4分半ほどのその楽曲にちょっと聴き入った。
夏、ようやく、街のレコード店で『ニューヨーク物語』を見つけ出したのが、ビリー・ジョエルとの邂逅。すでに4枚目のアルバムだったけれど、初めて自分の楽曲を歌ってくれるシンガーと出逢った。その中に、これもまたラジオ番組ではかからないだろうなと思われる、ボヘミアンラプソディー並みに6分もある「ニューヨークの想い」があった。
まあ長ければいいってものじゃないんだけれど、曲も歌詞もその和訳も、根本的にボヘミアンラプソディーとは違っていた。そこが分岐点だったのかもしれない。好んで買い求めるレコードはビリー・ジョエルだけになっていった(もちろん嘘である。後にイーグルスのホテルカリフォルニアにもかぶれるから)
『コールド・スプリング・ハーバー』(71年のデビューアルバム)は田舎の街では手に入らなかった。上京した後にそこまで遡ってLPレコードがコンプリートされる頃には『グラスハウス』がリリースされていた。前後するが、それこそ後にも先にもチケットを買って出かけて行った公演というのは79年と81年の日本武道館だけだ(これも大ウソで、その後彼女に誘われて日本の某バンドのコンサートに連れていかれる。しょーがないのである。その彼女こそが今の妻であるもの)
閑話休題。
95年に生まれた長女がまだ幼稚園の年長組だったころ、先代らすかるのカーステレオから流れている「レイナ」を聴きながら”All for Leyna”と口真似をしたのを見たときには(そりゃもう何度となくリピートされていただろうから)ウルトラスーパー親ばかな顔になっていたらしいのだが、全然否定する気はない。
いやー、あのおっさんも、今日で70歳ですよ。でも、十代で出逢った音楽っていうのは、一生ものになります。今でもBLUEらすかるから流れてますもん。
カセット→CD→MD→CD-R→iPodと、デバイスは変わりましたが、季節ごとに欠ける音楽は、やはり10代のころのそれだったりします。この季節にはこれ、という曲は欠かせないのですね。
うちなんか幌車は未だにカセットです(笑)
BLUEらすかるはハードディスクなんですが、自由に編集して数時間流そうとすると、枠が6しかないのが難点です。
通勤に30分とか一時間のまちゃん走らせてた頃は、みゆきサンばかり聴いてましたわ(笑)
今は長時間一人で運転する事自体稀なので、もっぱらラジオですねぇ。
東北にいた頃のラジオ放送で、交通情報には泣かされましたね。
交差点名なんかわかんねーもん。
で、今だと埼玉神奈川方面で交通情報が解読できません。