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  ~懲りない傾向~

事実上の絶滅種の壱

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90年代、エスクードのミニカーはブラーゴしかなかった時代ですが、エンジンラジコンと電動ラジコンには人気商品がありました。エンジンラジコンはモンスターのパイクスピーク仕様がまだエスクードベースであった頃に、ボディーが同様のデザインでユーザーが塗装し組み立てるものでした。それは所有したことがないので、手ごろ価格の電動ラジコンを、ホームセンターで見かけると買い足していたという(笑)。タイヨー製サウンドブラスターはその最大手でした。

本体の電源を入れ、メインスイッチを押すと「イグニッションサウンド」が響きわたり、続いて「アイドリングサウンド」に切り替わる。プロポを操作し、前進・後退をさせるときに「アクセルサウンド」。左右にステアを切ると「スキールサウンド」が鳴り響く。どうでもいいギミックで、動かすのがちょっとこっ恥ずかしい。
ギア比が変えられ、トルクをあげられますが、たいていの場合障害物を乗り越えられないか、逆に弾き飛ばされ転倒します。

実は四駆ではなく「RR」なので、そこですべてが台無しという割には、18分の一くらいのボディは非常によく造形されています。青車体は白をベースに塗り替えたものです。白と黒はそれぞれ周波数が異なるため、同時に走らせレースも可能というところに、この手の電動ラジコンの販売戦略が見隠れしますが、そうでないと遊べないので素直に受け入れてました。ただ、一人っきりでは2個のプロポなんか同時に操作できない落とし穴もあるのです。

二代目の日 後編

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90年代、カナダで二代目エスクード・グランドビターラ(V6-2500cc)に乗っていた今井勝男さん(Maroさんのお父さん)のお話を、エスクード三十周年記念企画サイトから引用し再構築してみます。当時の話を聞くと、意外なことにGМ寄りのデザインはともかく、オフロード性能を見切ってハンドリングやサスペンションを改良した二代目は、まさしくそこで不評を買っていたそうです。それはやはり、カナダという広大な国土での使い道に依るところが大きかったそうです。

「90年代といえば、北米の人々は、まあ全部が全部じゃないけど、シボレーサバーバンを好んで乗り回していたよ。あの国、というより北米大陸というお国柄だね。アクセルを踏んだら前へ出る。ハンドルを切ったらその方向に曲がる。ブレーキを踏みつけたらがっちりと止まる。その性能がしっかりとしていればいい。真冬はその限りじゃないが、ビッグトルクで家族や仲間を乗せて何百マイル走っても平気なビークルが信用されていた」

「私はそうは思わない。荒れ地を走るだけが車の仕事じゃないから。それよりもトロントからデトロイトまで快適に走って、快適に帰ってこられる方がずっと重要だった。あの車ははそれができたね。2.5リッターを積んで、ようやく大陸を走れる車に仲間入りした」

確かに、うちで乗ったものもショートとロングの違いもあったけれど、2000のV6と2500のV6はそれほど違っていました。

このTD62Wに相当するエスクード以前から、二代目は、最終的に世界累計200万台弱を販売できた初代を受けての、世界戦略的な使命を帯びていたのです。ただなんとなく、スズキというメーカーは、市場の確立されていなかった初代の幸運を除いて、歴代のエスクードを繰り出すタイミングを次々と見誤ってきたような気もしますが、それはまた別の話。二代目は不評と言われながらも、実際には初代よりもバリエーションの豊富な展開をしていました。

二代目の不評とは、丸まった車体(今だったら全然そんなことはなくなってしまった)よりも、初期の小型車シリーズにあった、まるでやる気のないグリルのデザインだったと思われます。これはマイナーチェンジによってフェイスリフトされ、初代以上に洗練されたものとなりました。足回りこそ5リンクが追加され自由度を固められましたが、今井さんの言われるように快適さの追随は邪魔にはなりません。ラダーフレームの踏襲も、骨太の四駆を継承しているのです。

 

 

 

二代目の日 前編

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11月7日。年次は1997年なのでちょっと半端ですが、この日スズキエスクードは初のモデルチェンジを行い、二代目へスイッチしました。

その姿は先行してメディア漏洩していたので、まさかーっとカタログを手に入れて愕然としたのはウソではありません。どこをどう切り刻んだらこうなるのか?というほど、それは突然変異していたからです。今思えば、余計なことを言ってしまった罪悪感を残しました。

余計なことと言ったら、初代が出たときにも「なんだこのかっこ悪い四駆は」と、僕はののしっていますから、まあ僕の感覚なんてアテにはならないってことです。その初代が再評価されているのとは別に、二代目はまだまだ現役で、フレーム+ボディに副変速機という構造で、昨今のうねうねしたSUVとは一線を画した、スタイリッシュなモデルに落ち着きつつあります。大人の事情でデザインが日寄ることとなったGМが倒産・国有化と解除を経てかつての勢いでないことは皮肉です。

GМに日寄らない二代目がもしも実現していたら。というデザインワークスは、実は初代が登場した80年代に描かれています。89年の東京モーターショーに出品された「constellation」(星座、の意)は、初代をデザインした片岡祐司さんによる、次期エスクードの一つの方向性でした。想定ではV6の3リッターを積む構想でしたが、評価は低く参考出品に終わりました。現代においてこのデザインラインは古びていますが、当時で言えばどのメーカーよりもSUVの姿をまとめています。

スズキ社内で片岡さんが聞かされた話では、このショーの期間中会場を訪れたジウジアローが、このモデルの前で長い時間立ち止まって見物していたそうです。二代目のデザイナーは片岡さんではありませんが、その割にはイメージは初代に「constellation」をミックスさせたようにも思えます。いずれにしても、先へ行き過ぎた二代目構想が北米需要を基に引き戻され、ぎょっとする形にはなりましたが、それでも時代を先取りしていたことは再評価すべきときでしょう。

 

構想十年くらいの実現

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SSC出版で単行本出ないかな

青森県八戸市立市民病院は、救命救急システムにドクターヘリとラピットドクターカーを組み合わせた「サンダーバード作戦」を10年ほど前から展開しており、ラピットドクターカー3台のうち「2号」に三代目エスクードTD94Wを導入しています。その頃から知ってはいたけれど、東北在住時には一度も現車を見る機会に恵まれませんでした。こっちへ帰ってきてから、同院長の今明秀さんたちがまとめているブログの書籍化されたものを手に入れたことから、思い立ってコンタクトしたところ、取材の快諾をいただき、来週9日に発売されるスーパースージー121号で紹介することとなります。

 

そこまでの経緯と概略は「空飛ぶ院長とドクターカー」で書いているので割愛し、この記事時点では見キレていた三代目エスクードの雄姿を、ようやく送り出せます。あぁ、わざわざ八戸まで行ったのかといえばコロナ禍の世の中です。そういうわけにもいきませんでしたので、リモートで・・・などという先端技術を使いこなすことも無く、メールでのやり取りに終始してます。

2台のラピットドクターカーと簡易手術設備を搭載したドクターカーが、なぜ1号、2号、V3なのかという運用上の特徴をうかがうことができ、やはりエスクードは「力の2号」なんだなあと感じました。TD94WにはBLUEらすかるの緊急入庫時などに乗ることがありますが、TD61Wよりも大柄で重いんだけど、扱いやすさと大きなトルクは確かに使い出があります。

ブログのコミックシリーズは新しいフェイズに入り、エスクードの出番は一応終わりました。これ、せっかくだからSSC出版から単行本出さないモノかなあと思うんですが、まあリアルの世界でもジムニーが出てこないから、無理だわな。

オーバーホールへ

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来年の車検時にやろうと思っていましたが、オイル漏れを1年放置するのは危険と判断して前倒しで入庫です。さすがにこれは主治医のところでは対応しきれないので自販に持ち込む段取りをしてくれたのですが、今のスズキ自販は軽自動車等のリコールによる作業で受け付けられないとかぬかしているそうで、ついでに「エンジンばらして整備し組み直すスキルを持った社員が、もう平須にはいない」というマジですか?な答えが返ってきたとか。

主治医は、BLUEらすかるのエンジンをいじったことのある整備士さんの居所を追跡して、近場の自販系営業所にひとりいらっしゃることを突き止めて、そこへ入庫となりました。軽整備で済むのかオーバーホールが必要なのかを見てから見積もりを出すと、整備士さんは言ってくれているのですが、そういうことならこの先の将来が不安じゃんと考え、迷わずオーバーホールでやってほしいと念押し依頼です。

てことで、年内に仕上がってくるかどうかわからないので、8日の買い出しトライアルには、ぷらすBLUEで出かけること決定。というか、当面、霙からクルマを借り戻すことになります。

ばかねっ

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「未来少年コナン」の再放送をなにげに観ていて、冒頭で有名なナレーションによる地球文明崩壊の年が2008年、物語はそれから20年後という設定に、なーんだ今、記事に書いてもかすりもしねーわと苦笑いしていて、それでも調べてみたら当たりくじ?を引き当てました。

コナンの物語がどのくらいの時間経過を持つのかわからないのですが、2028年の内に最終回の「大団円」を迎えている場合の話。

あのダイス船長のもとへ嫁ぐそれ自体があっと驚きの、「ばかねっ」が名台詞となったモンスリーさん、このとき28歳なんだそうですが、こんなめでたい最終回が2028年だとしたら、あれですよ、「スズキエスクード誕生40周年」という年回りとぶつかっているのです(彼女は2000年の生まれだそうです)。いやー、1台くらい大変動から逃れて、大型島となったのこされ島(の反対側。という設定ね)あたりで走っててくれないかなー・・・

まあまさしく「ばかねっ」な思い付きでした。

しかしほんとに「ばかねっ」な話で、ということは、超磁力兵器が使用され地軸がねじ曲がり5大陸のほとんどが海に沈むこととなったた2008年7月って、エスクード誕生20周年でイベントやってたまさにその頃じゃん。

 

・・・で、「大団円」をもう一度見直してみたんですが

バラクーダの修復時間

ドンゴロスたちが所帯を持って赤ん坊がいる

あらー・・・結婚式って2028年よりあとってことかー

水蒸気吹きまして

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うわーラジエターパンクしたか! と、びっくりするような湯気がエンジンフードの隙間やラジエターからもうもうと・・・

と思ったんだけれど水温計は正常で、開けてみたけどホースもコアも破損なし。どうやら雨ざらしの車体と、エンジンブロックから漏れ出していたオイルが走行しているときの過熱で籠っていたようです。

主治医のところで液体パッキンを入れてもらい経過観察ですが、どのみち対症療法ではらちがあかないので、オーバーホールを行うため近日入庫です。

四半世紀の価値

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日付まで覚えていないのが痛恨の極みですが、スズキX-90は今月、発売から四半世紀を刻むこととなります。誕生となるとその2年前の東京並びにヨーロッパでのモーターショーに遡るものの、量販車としての登場は1995年10月のことでした。私的なことを言うと、うちの霰と同い年で、もしも、ですけど霰が(12月に)生まれる予定がなかったら、最初に乗った初代ヘリーハンセン・リミテッドからの乗り換えに引っかかっていたかもしれません。

奇しくも我が家は「子供が生まれるしね」という慶事により、ヘリーハンセンからカタログモデルのV6-2000ハードトップを選択していました(ノマドじゃないのかって突っ込みはもう手遅れです。まあうちにはノマドも1600があったし)

国内では1348台という総販売台数と、この風貌がずっと尾を引き、ことあるごとに失敗作だの迷車だの言われてきましたが、そんなことをうそぶくあんたちょっと考えてみなさい。

台数不明ながらヨーロッパじゃそこそこの人気を博し、コミューターからバリバリのクロカンマシンまで、それこそユーザー思いのままにかわいがられいじり倒されてきました。国内で売れなかったのは事実として、これを手にする度胸と愛嬌が無かっただけのことで、日本人その程度のクルマ選びなのよと、スズキ初のV6だし子育てあるしとハードトップのエスクードを95年に買い替えた僕自身が、自戒せねばならぬと思っています。

当時からX-90は、極めて高いスペシャリティテイストを持った四駆だったのです。そう、SUVじゃなくて、四駆、です。そして、この時期既に開発がスタートしていた二代目エスクードには、初期のデザインイメージにコンバーチブルがありました(初代のデザイナー・片岡祐司さんによるもの)。X-90は片岡さんの作ではなかったと思いますが、まさにその姿を予見しています。結果だけを引っ張ってきて珍車扱いするセンスの方が四半世紀、動脈硬化してるってことです。

クボジャー 歌う

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久保田利伸が自動車のCМと関わるのは、ダイハツシャレード、トヨタランクルプラド、クライスラーグランドボイジャー、フォルクスワーゲンに続いて(かな?)五度目のチャレンジですが、そこに四代目エスクードが巡ってくるのは何かの縁ですね。奇しくも四代目はハンガリー産ですけど、久保田氏って静岡の出身(浜松じゃないのも誤差範囲内)。「Boogie Ride」本日、配信限定でリリース。うーん、どうせならこういうジャケットでCDがほしい。

Team WESTWIN Warriors#151

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「SX4、少しづつですが手を入れ始めました。現在、哲朗が、軽量化を図るべくリアシート等取り外しております。画像の作業風景はバンパ-が外れないよう穴を数箇所開け、結束バンドで縛っているところ(笑)」

9月の連休に入ってきた、島雄司監督からの連絡でした。耐久レースは25日なので、今だともっと進んでいるか、試走レベルに仕上がっているかもしれません。

 

ところでこの記事を読んでくださっている皆様・・・・

25日、開催延期ですってよ!

主催者がフェイスブックではアナウンスしているようですが、現段階でかなりの人たちが知らないらしく、島監督も人づてに知らされたそうです。どうも恋の浦を使用している上位の運営団体の様々な競技がコロナ禍のあおりで玉突きにずれ込み、耐久レースにも影響が及んでしまったらしいです。

「まあまあひどい話なんですが、俯瞰的には腹を抱えて笑ってしまう話もあります」

前回のレースに、敗退したとはいえウエストウインが参戦していたのを見聞したライバルが、ウエストウインのSX4の話も聞きつけ、極秘にチーム編成を行い車も準備を始めて「島君を当日ぎゃふんと言わせたる」とほくそ笑んでいたそうです。

「先日そこに所用があってお邪魔した時、『25日のレースが中止になっちゃいましてね』って、知らんぷりして教えてあげたときのリアクションときたらもう・・・」

今回は裏話の方がほんとにおもしろいです。が裏話ゆえに細かいことは書けません。ただ、聞くところによると20以上のチームが参戦しているレースの上、けっこうたくさんの学生が資金をやりくりして車を用意し耐久を楽しんでいる風景を見られるというところが重要です。

こういう部分に丁寧なアナウンスも無く、ふたを開けないと中止もわからないばかりか参加者の努力が日程(今のところ12月13日との話)によっては水泡に帰すかもしれないなんて、主催者はもっと真摯にビジネスと向き合うべきでしょう。