Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

鼠の尾まで錐の鞘

2 Comments »

 

2020年が始まりました。

車体で言えば齢24年のBLUEらすかることスズキエスクードTD61Wは、その年式の通り子年のラインアウトだったことに今更ながらに気が付きました。このエスクードも、いよいよ地球と月を往復して帰還へのカウントダウンに入っております。768800kmという道のりにはそれほどの年月を必要としました。この先壊れなければ、夏には帰りつけると思われます。

傍から見れば、かなりくだらない挑戦です。しかもこれが役に立つのかといえば、「鼠の尾まで錐の鞘」と言えるだけの価値があるのかどうか。「頑張ったけどケチのすること」には喩えられるかもしれませんが、まず世間の関心事にはならないでしょう。

けれども、平成の始まる年からエスクードに乗り始め、ぶれず流されず初代にだけ乗り続けてきたことは、きっと伊達ではないのです。惜しむらくは昭和の終わりに乗り始めていたら、一本芯の通ったエスクード馬鹿になれたのですが(笑)

 

 

Heri ya Mwaka Mpya

Heri ya Mwaka Mpya はコメントを受け付けていません

機械仕掛けの46年

機械仕掛けの46年 はコメントを受け付けていません

なぜこれほど不細工なプロポーションで、つるんとした装甲がかっこいいと思えたのかは謎だったんですが、おそらくそれはプロレスラー然としたブルマーのような腰部のマジンガーZが嫌だったんだと思います。ならば全身真っ赤の機体の方が、機械っぽい。のちに制作されるマッハバロンの方が絶対にスマートかつごっついのに、どうしたことかレッドバロンのこの造形は、結果としての潔さで贔屓せずにはいられないのです。

当時、指紋認証と声紋認証を強奪防止セキュリティに導入したことは新しかった(まあ突破されちゃうんですが)し、操縦桿をどう使うのかが理解できなかったけれど、「ファイトレバー」を入れるだけでどうやら基本動作の格闘戦は可能だという描写や、操縦室が灼熱化したら百円入れてクーラーが機能する(笑)スポンサーCМも楽しかった。つまるところ、設定をとことん練りこんでも、押し付けてこない適当さって、案外大事だったと感じさせるのです。

途中のつなぎの話数はぐだぐだモノなんだけれど、根幹はテクノロジーを介する人類の未来の行方という、がっちりとした路線の子供向け番組。残念ながら特撮巨大ロボットものはアニメーションのそれに比べて数少ない。それでも、やっぱり、トランスフォーマーじゃダメなんですよ。46年前にこれだけやっている。ついでに「哀 戦士」より8年も早く井上忠夫(大輔)で主題歌作曲してます。と、これだけ理屈つけてソフトを買ったというオチ・・・

だぶるの新劇

だぶるの新劇 はコメントを受け付けていません

だぶるの法則

だぶるの悲劇

だぶるの喜劇

だぶるの惨劇 そしてだぶるの笑劇

そんなわけで、Мydо小僧、GUTS小僧、SuperGUTS小僧、XIG小僧まできまして、あと二つストックがあるんですがここらで一休みします。

しかし何という盲点。いまどき鉄板を使わない冷蔵庫のドアに、こいつらは張り付かないのです。やむを得ず電子レンジの横に仮置き(張り)しましたが、何か適当な展示板を作らないといかんなあ。

マイノリティな視線

マイノリティな視線 はコメントを受け付けていません

しかも彼の名は「或人」

「仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション」

もうライダー映画のこの手の企画は定番化してしまったので中身には執着心も湧かないのですが、ただでさえ令和最初の主人公が「01/ゼロワン」だというのに、ゲストで出てくる主人公の父親が「仮面ライダー1型」って、ごく一部の少数のほんのわずかなスズキエスクード・初代のファンにとって「どんだけ我々に手招きしやがるんだ」というネーミング。エスクード的に言えば、01の1型は昭和63年5月に誕生した初代最初の車種のことですから(いや、だから、ごく一部の少数のほんのわずかなファンにはわかる話なの)

「旧1号」リスペクト

もっとも劇中にはその中間ポジションなのかどうか知りませんが(なんせ本日封切りですから)「仮面ライダー001」というのもいるらしいです。うまいこと緩衝材になってます。

これで同シリーズのヒューマギアという設定やライダーへの変身システムにTAとかTDとかのアルファベットが使われようものなら、もう確信的に制作者側にエスクードОBか現役ユーザーがいるとしか思えなくなります。まあそれは思い込みすぎとして、1型、などという表記・呼称をするあたり、今や仮面ライダーも工業製品感覚なんだなあと、それこそ令和的感覚を受け止めるわけです。

フォースとともにあれ/技術と予算も

フォースとともにあれ/技術と予算も はコメントを受け付けていません

ん? 一人・・・

「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」が公開となります。ジョージ・ルーカスが70年代後半、少年時代からスペースオペラの9つのエピソードを温めながら、そのうちの4番目の物語を世に送り出し、とうとう最終章までやってきました。

78年にそのエピソードⅣを観たとき、こうなるとは思ってもいなかったですよ。40年以上かけてひとつの舞台を完結させるほど、壮大というか呑気というか。関係ないですが小松左京さんは存命中、「さよならジュピター」原作小説内で「スター・ウォーズ30」という言葉を綴っていましたけど。

それでふと思ったのです。

今まで、資金と物量で作られてきたスター・ウォーズのシリーズも、圧縮して物語をまとめると、9本も要るかこの映画? と言えなくもない(いやいや、要るんですよ実際には)。40年以上かかったのは、エピソードⅣの時代では、ルーカス氏自身が技術と予算の問題で一気に描けなかったという事情があってのことですが、それらのハードルをクリアしながらエピソードⅨに至る。これだけ時間と資金と技術を投じていけば、そりゃシリーズも膨らみますよ。

この比較対象で、真逆のポジションに置き続けてきた、東映の「宇宙からのメッセージ」を思い出すと、逃げようがないほどそれなりのものしかできない。讃えたいところが一つもない東宝の「惑星大戦争」よりはマシとはいえ、ほんとに総論としてはとほほな映画だったのです。と、今まで言ってきました。でも、ほんとにそうなのか?と、ふと考えが揺らいだのです。

洋画がヒットしたら似たような路線を速攻で作って当てに行く。という東映路線にのっかって作られた「宇宙からのメッセージ」は、観ようによってはスター・ウォーズが9本もかけて描いたスペースオペラを、たった1作でやってのけている。これは光子帆船プレアスターの美しさと、楽曲の中のエメラリーダのテーマのすばらしさに次ぐ評価軸だったのです。ストーリーを日本の冒険活劇の古典(南総里見八犬伝)に求めたとはいえ・・・、否、欧米のいかにもな神話なんぞに頼っていない時点で、東映流短期間でまとめた企画として、企画力はたいしたものだったんだよと、今更ですが気が付きました。

松竹にやらせたら「男はつらいよ」のシリーズなんか30年かけずに49本できちゃってるんですもん(50本目はこの27日に封切り)。まあそれを言ったら洋画の世界にもスーパーマンやバットマンやスタートレックがあって、ターミネーターがにじり寄っているとも言えるのですが。それらに仮面ライダーとスーパー戦隊をぶつけるのはまた別の話ですからやめときましょう。

ヒロインだってさー(それでそこかよ)、キャリー・フィッシャー、ナタリー・ポートマン、ディジー・リドリーと比べたって、志穂美悦子さんまったく引けをとらないじゃないですか(すいません、僕はパドメ・アミダラ役のナタリー・ポートマンが一番だと思ってます)。

 

 

 

 

真実と正義と美の化身

真実と正義と美の化身 はコメントを受け付けていません

エヴァんときもこんな背景で後ろ姿だったな

庵野秀明さんの目指す「シン・ウルトラマン」の姿が公となり、原点のウルトラマンをデザインした成田亨さんのビジュアルに回帰するという、乾いた言葉で言えば「やり残しているのはそこしかない」カラータイマーの撤去が目を引きます。

それは成田さんが求めた真実と正義と美の化身の体現なのですが、令和の人々はこの姿をウルトラマンのスタンダードとして認識していく。別に悪いとは思いませんけど、昭和のリアルタイムでファーストコンタクトした世代には、胸の点滅は「あるべきもの」だったんですよねえ。

ものづくりの時代

ものづくりの時代 はコメントを受け付けていません

日本での初上映だって戦後とはいえ僕が生まれる前ですから、1939年の映画がどれほどの手間暇をかけて作られたのかなんて、映像でしか知りえません。その、ちょうど80年前の12月15日に「風と共に去りぬ」は封切られ、映画史に名を残すこととなりました。これをいつ観に行ったかはもう忘れてますが、当然、テレビ枠で2週にわたって放送した吹替ものと、リバイバルものとしての上映です。インターバルが入るほど長い、という映画は、昔はざらにあったようにも思います。

アメリカ・南北戦争末期のアトランタで繰り広げられたスカーレット・オハラの物語は、過ぎたるは及ばざるが如しの連続にして、なんだってそんなに素直になれないのさ? と思いながら、自分に素直であるが故そうなってしまうすれ違いの恋の物語。

そうなんです。スカーレットとレット・バトラーとあと何人かの恋の紆余曲折が本筋でありながら、えっそうなの? と驚かされる南部の貴族文化の崩壊と奴隷解放と、つまりアメリカの内戦の描き方の力の入れようにしか、あの頃は目が行きませんでした。なんといってもレット役のクラーク・ゲーブル(の顔)が気に入らなかったし。

けれども、北軍に攻め込まれたタラの市街地が炎上するシーンを、30年代の映画が特撮で撮れるはずもない。燃え上がり崩れ落ちる建物の前で脱出非難する馬車と馬のシルエットは、そのままそういうセット撮影をしている。後になって知るのは、ハリウッドすごいわと驚愕するそのシーンの撮影時点で、実はまだスカーレット役の女優が決まっていなくて、撮影を見に来ていたまだ無名の女優が現場で抜擢されたという、ヴィヴィアン・リーの逸話。そしてちゃっかりと原作の和訳本が僕のお袋の本棚にあって、「50年代のロードショー観たことある」と言われたびっくりと、あちこち本筋と異なるところで記憶に刻まれています。

原作者のマーガレット・ミッチェルは南北戦争時代の人ではなく、母親から聞いた戦争と自身の体験を組み合わせ、書き上げた物語。彼女が母親と死別し大学からアトランタへ帰省したのが、偶然にもいまから100年前のことだそうです。ところでいろんな人が日本語版を当てている中で、機内版のスカーレットが鈴木弘子さんだと。それは観たことないけど、あのフランソワーズ・アルヌール(003)の鈴木弘子の声なら、観たいなあ。どこ路線でかかってたんだろう・・・

だぶるの笑劇

だぶるの笑劇 はコメントを受け付けていません

出ました!!!

ステーキを焼く小僧・・・かと思ってたら「ココスビーフハンバーグ」を焼いている姿だそうです。

いやー良かった良かった。まあまたもやキャベツを洗う小僧はだぶったんですけど、これでようやく五種類揃いました。

と、胸をなでおろしていたらですね・・・

「うち(お店)で飾るやつをそろえるのにだぶってしまったものなんですけど、どうぞお持ちください!」

・・・ええーっ!?

 

というわけで、

続投決定です(笑)

右からUGМ小僧、ウルトラフォース小僧、UМA小僧、W.I.N.R小僧。現在それ以降を工作中。teamEYESあたりまでいけそうです。

1969Miracle Girl

1969Miracle Girl はコメントを受け付けていません

いつのまにかっ、猪熊柔もそんな御年ですかー・・・

同じ誕生日(要するに今日)の半沢直樹の方が1歳年下だってよー。