帰りがけに、富士山頂買って。
駒門PAでアメリカンドッグ食べて。
渋滞避けて圏央道に回ったのに、まさかの事故渋滞で40分足止め・・・
運転してくれたはるちゃんには陳謝致します。
行きは新月サンとO山サンが交代で運転しました。運転変わらなかったアコギなヤツは・・・私だ
その後、大宮で夕飯食べて解散しました。
仙台在住の8年間、いやというほど通い詰めた復興道路の建設現場や被災地の人々との対話が、ずっと昔のことのようです。
気仙沼市内の一部分を残して、常磐道のインターチェンジから遠野まで、磐越道も東北道も使わず、高速道路で行ける時代になりました。作った側はそうなるように作ったんだろうから当たり前なんですが、早朝走って仙台から釜石まで2時間です。僕がいた頃は、2時間では気仙沼にさえたどり着けなかった。
基地からだったら遠野なんて7時間コースでしたが、5時間半となりました。沿岸まわりだと、宮城県の春日パーキングエリア以北にまともな休憩所が無いのがネックですが、主だったインターチェンジ周辺には道の駅があり、これを活用させて「沿線の街を素通りさせない」作戦のようです。
釜石までやってくると、宮古・久慈への分岐もありますが、こちらへ向かうと現在は宮古まで高速がつながりました。久慈へもあと2年以内だとのこと。
もう隔絶の世ってやつです。
鰻でございます。
遅めの暑気払いって事で(笑)
まぁ街中にある小さいお店だって、美味しいんだけどね。
折角行くなら有名処で食べたいじゃないですか。
はるちゃんはどちらも食べた事があって、新月サンは桜屋、O山サンはうなよし。
・・・私はどっちも食べた事ない。
入れた方で食べましょうと車を走らせたら、途中通りかかった「桜屋」は、20人くらいお店の前で並んでいたので「こりゃあ、うなよしも混んでるかな?」と、たどり着いた「うなよし」は、正に今〝営業終了しました〟って札を出そうとしていたトコロで
O山サンが「4人なんですけど・・・終わっちゃいました?」と、聞いたら
「4名様なら大丈夫です」
と、入れてもらえました(滝汗)
大変美味しゅうございました♥
高級割烹の霞月楼は今後の目標として、喫茶店蔵のツェッペリンカレー、ほたて食堂の天丼とやってきたつくばーどですから、第三弾はやはり吾妻庵総本店の蕎麦を食いに行くことにします。
秋蕎麦まで待つのもありですが、秋蕎麦じゃなけりゃ美味くないのか?という反目により、日時は9月15日で準備します。連休中日で混雑も予想されるので、開店(11時)と同時に入店します。
残念なことに、40年通ってきて、なんとなく蕎麦打ちや水切りが下手になっているかなあとも感じるのですが、130年を越える街道すじの蕎麦屋という設えを見るのも、乙でしょう。
午後は思いっきり対極に、混んでいなければ筑波宇宙センターか、そこがだめなら産業技術総合研究所内の地質標本館あたりを見学に出かけます。参加される方は直接雷蔵までご連絡を。集合時間と場所をお知らせします。
「銀河鉄道の夜」が、その第一稿の書かれた年から95年めだそうですが、だからってなんだって、転勤して半年以上経つ自分がこんなところまで来させられるのよ? という昨日の朝のことでした。
しかも往復1000キロを日帰りって冗談も休み休み言う前に、夏休みよこせよ。って文句を言う相手もここにはいないので、自主的に午後は遊びます。
ことしはもうここの特製ラーメンは食えんだろうとあきらめていたので、ありがたくいただきましたよ。陸前高田の会社が作っているマスカットサイダーというのが献立に加わっていたので頼んでみましたが・・・ごく普通のサイダーでした。エアコン不要の涼しい高原は、夏休み期間が終わっても、日曜宿泊のキャンパーがけっこういます。こちらは海側へ山を下り、三陸沿岸道路で宮城県を目指します。
計算を何度もし直しつつ、仙台から東北道に戻って吾妻パーキングエリアあたりで踏むだろうと読んだのですが、国見の峠下りまで来て、・・・うーん、これは吾妻だと1キロちょっと足りんわ。と、やむなく国見インターで高速を降りて、またもやいつものようにメータを見ながら国道も離れ。
結果的に、福島市の林道ツーリングのときに集合場所となっているコンビニエンスストアに滑り込んだところで740000キロとなりました。
令和時代第一弾の仮面ライダー、01(ゼロワン)の放送が始まるので、自分でも不思議に思ったこと。
昔から何の疑問もなく、1600ccのエスクードを「てーえー/てーでーぜろいち」と呼んできたのです。僕の記憶ではこれを洒落て「ぜろわん」と言っていた人がいない。TA/TD01Wって、正式正確にはどう読めばいいのか、案外どなたも知らないんじゃないでしょうか。たぶん、これまでの呼称が正しいのでしょう。でも不思議と言えば不思議です。01系に限らずすべからく日本語数字でためらうことなく、全車種それぞれに呼ばれていた。
もっと言えば、これは少数派がいらしたかもしれませんけど、52とか54とか94など、ごじゅうにやらきゅうじゆうよんやらでもあまり呼ばれない。語呂が悪いからかもしれませんが、ごーにー、ごーよん、きゅーよんが主流です。旧日本軍式の型式呼称なのかなあとも思いましたが、零式艦上戦闘機の丙52型なんて、確かごじゅうに、と呼んでいたように覚えています。
あの頃、なんでティーエーゼロワンダブル、なんて呼び方をしなかったんだろう。
「機械の体をもらいに行きたいので、銀河鉄道のパスを手配いただけないか」
友人からのメールはいつもの如しだったが、いつもと違っていた。
「あー、メーテルさんは要りません。独り旅と洒落込むつもりだから」
パスを(まあ偽造だけどね)発行しながら、腑に落ちない文面に、何事ぞ? と尋ねたら、重い病の報が届いた。
そんな、俺より若いじゃねーかよ。そのうえ、俺なんかよりずっと知力も体力も使いこなしているはずなのに。
偽造とはいえ、パスなど発行すべきではなかった。そもそも偽造なので、銀河鉄道には乗れるはずはないのだけれど。
だが999もどうやらまだ完結には程遠いらしいし、銀河鉄道の夜にしたところで「第3稿」まではあの結末ではなかった。
どうせ改札を通れない無期限・無制限だけど無効なパスだ。まだ何か手立てはあるかもしれない。
あってほしい。
ダンとソガが人工冬眠と自動航行の実験機に乗り組み「第四惑星」にたどり着いたのは、2000年8月30日のことでした。彼らはそこで、電子頭脳や機械に支配された人間社会を目の当たりにし、合理的かつ効率のみで杓子定規の論理に翻弄される人間を放置できず、脱出とともにこの文明を崩壊させました(実行したのはウルトラセブン)。子供心にまさしく「悪夢」のような社会を見せつけられ、そこにには夢と希望の未来社会を構築しようとした人類の英知が介在していたことも想像させられたのです。
よその国では、1997年の8月29日に人工知能スカイネットが自我を持ち、人類を粛正するため核戦争を勃発させていく「審判の日」なんてことも起きていたらしいですが、ウルトラセブンの描いた「第四惑星の悪夢」は1960年代と未来をつないだ物語。帰還後、警備隊内では冬眠処置中に見た夢であろうと笑い話に片付けられてしまうのですが、視聴者側はダン、ソガとともに笑えない未来現実を垣間見ていました。
その判然としない「夢か現か」のひとときから、ドラマベースで19年が経過している今、パソコンとインターネットが実に便利で豊かな社会を構築しているようで、紙一重の危険と明日をもはらんでいるよねえと、あらためて感じるわけです。
これからAIだとかIoTだとかが台頭していくなかで、「あー君、明日から要らないから」などと言われそうな筆頭の場所に自分は居るんじゃないかと、段々実感を伴ってきたところで、昨日の朝は飛び起きましたよ。