とてもじゃありませんが、自分自身、「雨ニモマケズ」のような生き方は出来そうにないし、そういうものになることすら無理。宮沢賢治に惹かれるところはあっても、賢治が斎藤宗次郎に惹かれたような純粋なロジックには至らない。しかしながら「ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」というところには、それに倣いたいと思うことはあります。
東北にいるのは、それが仕事だからの一言に尽きるけれど、やってきた途端にあの震災に遭い、何が何やらわからないうちに、もう2年が過ぎてしまう。復旧の直接的な現場にタッチしているわけでなし、ボランティアに従事しているわけでなし、それにもかかわらず、この2年間、ずっと被災地と対面する仕事が、自分の本業です。
どこか壊れたかもしれない。でも本来の目と耳が覚醒しているかもしれない。だからといって、それがこの地の復興に役に立つ術にはなりそうもない。要するに役たたずな存在なのです。
それでも、首都圏で暮らしていたら、ものの考え方に変化は起きなかったであろうことは、確かなのか。寝込んでいる時にうなされながら、なんだか危ういことを考え込んでいたなあと苦笑しています。