井戸の底へ降りたことのある人は少ないけれど、井戸の底を覗きこんだことのある人は、それよりは多少いるのではないかとふと考え、重力の井戸という言葉は、本当はどちらの人々に対して放つべきものなのかに、言葉の象徴性を感じました。重力を振り切るところまで行った人間は、それこそ井戸の底を覗いた人々よりも少ない。でも、井戸の底に降りたという体験は、その場所から外へ「戻る」という意志と行動も伴っていて、けっこう能動的に思えるのです。
ただし、髪を振り乱していたりお皿を数えていたりというのは、ちょっと遠慮しときますが。
井戸の底の体験は、子供の頃の話で、堕ちたわけではなく掃除の手伝いをさせられたもので、縄梯子で降りて行って、堆積した泥やごみをさらったバケツを、垂らしてもらったロープに括り付けて引き上げという作業でした。
けっこう身軽だったわけです。が、今ではその井戸からはつるべもその後のポンプも外され、蓋がしてあります。今の図体でここに降りるのは極めて危険なので、震災のときにもこの井戸は活用されずじまいでした。
入院生活によって、いくらかは減量もできたわけですが、ベースがベースですから、井戸のことよりも重力のことの方が頭の中をよぎり易く、体重が落ちても筋力が同時に失われていては何にもならないねえと痛感しました。
ようやく本論かい。
1Gという力は入院以前と変わらずに作用している。ただ立っているだけなら、いくらかでも減量したなあという体感は来るのですけど、歩いてみるとなんとなくよろめきがち。作戦室が4階建てながらエレベータのない集合住宅となれば、2月に転落したときとは別の作用で、重力がのしかかるのです。
階段の上り下りは、かなりしんどい。でもこれは体を動かして適度に食って元に戻すしかないようです。