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  ~懲りない傾向~

15年の風化

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s-DSCF00759月30日。1999年のこの日、東海村の民間企業核燃料加工施設にて、核分裂臨界事故が発生しました。当時、千葉湾岸まで通勤していた僕は、このニュースを移動中の車内でラジオ番組から聞き、仕事を中断して東関東自動車道経由で帰宅の途に就きました。

東海村と基地との距離は直線にして40キロを割り込むくらい。公的な避難指示はこの距離には及んでいませんでしたが、県道で通りかかった常磐道のインターチェンジは封鎖され、「通行止め 原子力災害」という電光板の文字が戦慄を覚えさせました。翌日には驚くべき速さで収束の報が流れるのですが、現地周辺ではその後しばらく、高い放射線量が検出されていました。

そのあらまし

東日本大震災で、これをはるかに上回る原子力災害が起きたことで、人為的に臨界を進めてしまったという事故の記憶は上書きされてしまったのか、再び警鐘事例として持ち上げられているのかは定かではありませんが、あの事故から15年です。東海村全体の施設で言えば、設備更新を続けたとしても、物レベルでの老朽化は随所にあるのではないか。それを考えると、記憶が風化していくのは危険なことなのだなと、あらためて感じます。

ひるがえって9月。今年ついに、国道6号線の原子力災害封鎖区間が通行止めを解除されましたが、自動2輪での通行は認められていません。自動車で通過するにしても、窓を開けてはならない。放射線ではなく放射性物質の人体への付着を防止するためです。えっ? 自動車に付着する分にはかまわないというの?

被災地復興には道路の封鎖解除は欠かせないものの、タイムテーブルに追われてのフェイズの進め方のような気がして、こういう事象が風化をも加速させないのだろうかと心配になります。

2 Responses

“バケツ”事故ですね。
お粗末にも程がある・・・。
確かこの日、常磐道を南下し、水戸インターで下りて帰った覚えがあります。
帰宅してビックリ^^;

  • 柏崎市が編纂した柏崎刈羽原発の建設史というのがあって、あそこを作る際に砂丘で放射環境調査のために仮置きした放射性物質が、入れ物ごと現地から紛失したままと綴られています。
    人のやることってピンからキリまでですね。