1030年の昔、延長8年6月26日のこと。干ばつにあえいでいた平安京を突如襲った雷雨のなか、清涼殿と紫宸殿に落雷があり、大納言民部卿の藤原清貫ら数名が死亡、時の醍醐天皇もその惨状に混乱し、3ヶ月後に崩御した。
藤原清貫は、中央集権的な財政を推し進めた右大臣菅原道真の手腕に反発していた左大臣藤原時平の配下。道真の監視役でもあった。清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まり、京の都はこの落雷事件以前から続いていた要人の急死もあわせて、全て道真の祟りではないかと恐怖するのであった・・・
当の道真は、藤原時平に陥れられ、大宰府へ左遷され、903年の3月に現地で没している。彼の死後に起きた一連の怪事件に、とどめを刺したのが、この清涼殿落雷事件と言われており、これをきっかけに道真の怨霊は雷神と結びつけられました。京都の北野には火雷天神という地主神が祀られており、朝廷は北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとしたほか、既に没している道真の職権なども回復させます。
雷のメカニズムを科学的に知ることの出来なかった当時のことですから、そりゃあ祟りだと思いこむのも無理はないですし、立て続けに至近距離に落ちる稲妻と轟音を見たらパニックにもなるだろうなあと思わされます。そんなわけで、菅原道真という人は、アモンと合体してデビルマンとなった不動明よろしく(・・・っていいのかそういうたとえで?)雷神の化身に祭り上げられ、雷神を眷属に含めた天神様になっていくわけです。しかし俗に天神様と言ってもこれは天津神全般のことを示しているはずで、雷神の位置づけは「その中のひとつの威力」と解釈できるため、道真の怨念を神格化して「逆に封じる」という、いかにも陰陽的なものの考え方が宿っています。
21世紀に入ってから顕在化してきた、ゲリラ雷雨やゲリラ豪雨というのは、こうした平安時代の祟り封じが、1000年という有効期限を終えて効力を失いつつあるからなのでしょうか。もしもそうであるなら、今度は何をカウンターアタックの素材にすればいいのやら。ベンジャミン・フランクリンの言葉でも借りてくるか?
- 誠実 詐りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出ですこともまた然るべし。
- 正義 他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず。
- 中庸 極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。
(フランクリン13徳より抜粋)
写真は、霰が修学旅行で参拝してきた北野天満宮の狛牛さん。正しくは臥牛と言うそうですが、道真が丑年うまれ、大宰府へは牛に乗って下った、刺客から道真を守ったり、道真の墓所の位置を牛が決めたといった、かなり後付けっぽい逸話にあふれていて、天満宮においては神の使いなのだとか。
丑年うまれ・・・道真が活躍した時代は、すでに空海によって真言宗が定着しつつある頃なので(空海自身は道真が生誕する10年ほど前に入場していますが)、密教の世界から虚空蔵菩薩に関する情報の刷り込みも行われているのかも。牛と虎は虚空蔵菩薩の守りにつく獣で、虚空蔵菩薩そのものが、宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という存在ですから、智恵や知識、記憶などの利益によって学業成就にも通じていきます。天神様に近いものが、こんなところに見え隠れしているのではないかと思われます。