この数回、話が前後していますが、整頓すると「エンジン修理できずに引き取り」「宮城と山形に仕事で出かけ」(本日の記事)、「須賀川で」という順序になります。しばらくぶりの仙台だったけれど、コロナ禍で行きつけだった喫茶店が閉店していたらどうしようと心配しながら路地へ入ったら、
「あらーボス! おひさしぶりー」
と相変わらずの朗らかさでママが出迎えてくれて、指定席をすすめてくれました。ご多分に漏れず仙台もあちこちでクラスターが生じ、五月の一か月は開店休業だったそうです。
「見たことあるクルマが裏に置いてあったからもしやと思えば!」
「二年くらいぶりですかー?」
などなど、出勤前にコーヒーを飲みに来る近くのОLやら生保のおばちゃんやら、顔を見ずとも僕の図体ですからすぐわかる(笑)ので、店に入ってくるなり声をかけてくれるのは嬉しいことでした。東京に戻ったとたん、こういった息抜きに立ち寄った喫茶店がことごとく無くなり、コーヒースタンドのような形態に変わっていただけに、ここへ舞い戻ったら古巣のままだったというのは不思議なものです。
午前中、市内で仕事をこなし、午後の山形市の訪問先に移動する途中、しろくまさんとも連絡が取れてほんのわずかに時間再会が叶いました。やはりエスクードが修理中で、奥方のクルマでやってきた彼でしたが、これがマツダにОEМしているハスラーだったという、霰たちのハスラーコミュニティーを後押しするような危険な選択でした。山形市内でしろくまさんに会うのも、震災の年の春以来です。まあその間、彼が茨城に来てくれてましたが。
しろくまさんも出張に出かける途上だったので、クルマを並べて撮影なんて暇もなく、BLUEらすかるの粗品をお渡ししたらば、山形大グッズ(大学で企画したという米の詰め合わせと米沢牛パイ)なんてものをお土産にくださり、わらしべ長者(おいおい)となりましたよ。これで午後の仕事も景気づけられたようなもので、満足のゆく成果を得られ、再び仙台に戻ると、あのジェーエーシーの故・眞野社長の片腕の部長が眞野屋レストランに席をリザーブしてくれていました。
基本はマルシェスタイルの眞野屋ですが、生鮮食料品や雑貨店以外にベーカリー、バー、カフェ、レストランといろいろ詰め込まれている。ただ、グランドオープンの時にはそれら飲食関係の店が開店時間前だったため、どんなしつらえかは知らなかったのです。
コロナ禍で来客も減っている中、それでも買い物にやってくる人はちらほら。座席とテーブルを削ったカフェも閑古鳥にはなっていませんでした。
「あたしゃこれから蔵王で会議なのよ。閉店時間気にしないで社長を忍んでいってね」
とテーブルに案内され、ぽつんと店内を見回すと、例によってあらゆる調度品が廃棄材のリサイクルです。それが眞野社長の信念だったねえと、そこにいてほしいのにもう一緒に仕事のできないことを実感させられました。8年居て、あれからもう9年目の時間でした。
いやあ、先日はすみませんでした。もっと気の利いたものも用意できたのですが、午後からの研修会の資料準備でバタバタしておりました。前は「学長せんべい」というのがありました。腹いせに地面にたたきつけて割っている教員もいたとかいないとか…(笑)。そのせいか、新学長になってからは置かれてませんね。農学部の米で作ったお酒も美味しいです。
妻用のマツダ・フレアクロスオーバー(ハ○ラーですが)をお見せできて幸いでした(?)。
あの日入庫中だったTD01Wはショックアブゾーバの交換が終わり、無事に戻ってきました。たぶん、30万㎞ぐらい換えてなかった?(笑)。だいぶかっちりしました。固めにはなりましたが、発進時の沈み込みと停車時の前のめりが少なくなり、カーブの安定性も増しました。スタビライザーのブッシュも夏に交換したので、相まって安定したかと思います。
また山形にお越しの際はご連絡下さい。月往復記念品は一個、娘がもらっていって机に飾っています。ありがとうございました。
何をおっしゃいますか。大学謹製の品々は我が家では大喜びされました。
対山形大で、新潟と茨城の卒業生は大盛り上がりで、私立出の親は二人して蚊帳の外でしたよ。
それにしてもフレアクロスオーバーを目視していながら、いちまいの写真も撮らずに帰ってきたことの方が痛恨事でした。
東日本大震災のその後の仕事で、あと一度くらいは仙台に出ることがあるかもしれません。福島・宮城県境で雪でも降っていたら、山形への山越えさえ気を付ければ、むしろ東北中央道で福島へ走った方が安心なので、そんなルートを考えています。
常磐まわりは工事通行止めが多くて今は使いにくいです。