朝、起きた新月サンが開口一番 『喉痛い』 はい?! どこで貰ってきたどこで。 言っとくけど、私のじゃないからね・・・ 熱が37℃辺りをウロウロ。 かかりつけの病院に電話したら、 熱が上がりきってないと検査しても反応出ないから 明日来てくださいと言われたそうです。 ・・・どうしましょうかねぇ・・・
うつしてませんからねー
凍てつくほどでもない大寒 それは都会の話
3月並みの陽気だということですが、つくばーど基地の明け方は氷点下となる日が続いています。ふと気がつけば大寒だもんね。幸いなのか残念なのかは定かでありませんが、ここしばらくは雪の降っている方面への仕事が無いので、先日の成人の日連休のときに油脂類点検を行い、残量の少なくなっていたウインドウォッシャー液を補充。水道水で希釈する割合を低くしてタンクの八分目まで満たしました。これで関東地方ならば凍ることはないでしょう。
走行時間が長いこともあり、バッテリーの充電もうまく行っているのですが、あらためて確認すると「4年1月」と記されている。これってこのバッテリーを取りつけたのが「令和4年」ということだよね。西暦で2004年を略しても0は付けるよね。むー・・・換え時といえば換え時か。そろそろ新調した方がいいのかも。ワイパーブレードも昨年夏の酷暑で材質の劣化が著しく進んだようなので、近々いっしょに買い付けに行こうと思います。
「ほぼ」週刊エスクードを作る 02
初代エスクードの最終型あたりで採用されたマイアミブルーメタリックⅡという車体色は、当時のスズキでエスクード以外に使われていたかどうか既に覚えていません。水色のようで水色でなく、スカイブルーというのもちょっと違う。とはいえマイアミなんかに行ったことが無いので現物を眺めて色のイメージを考えるしかありません。いやほら、カラーコードを使ってそのものの塗料を調合してもらえばいい話ですが、めんどくさいので今回はやりません(いいのかそれで!)
しかし昨今、模型店が激減して、あった見つけたと飛び込んでも長い年月置きっぱなしだったボトル入り塗料の保存状態が悪く、買い物にならない。田舎にあるカー用品店などさらに過酷で、人気色の塗料しか扱っていない。昨今、このような彩度明度の青はどこのメーカーのクルマも使っていません。この手の材料を近場で得られるのは画材屋が開く模型コーナーだけでした。悪魔の誘惑ですよ、画材屋にはアクリル塗料が豊富にそろい、エアブラシも売られている。自分で調合できるのです。が、塗装後に取り付けるパーツの調達が予算的に優先度を上げており、これもやらないのです。
模型塗料のスカイブルーを一時塗装してみました。こんなものだよねーとちょっと言えない青です。これは理由が分かっています。赤成分が足りないからです。フジミ模型のエスクードをインビエルノブルーメタリックに塗装した時、青と銀と白を調合してもその色にならず、試行錯誤で赤がほんの少し必要という答えを導き出しました。今回も同じです。だけど雑でいい加減な仕事を貫きます(全く自慢にもなりゃしない)
さてこれは後継車になるのか
スズキが本格的に「e VITARA」の世界戦略を表明しました。新型車のアピールだけでなく、BEVを世の中で走らせるための充電施設といったインフラ整備にも及び、インドにおいてはその市場環境を多角的に整えていこうとする考えのようです。同社はおそらく、小型車の生産拠点を海外に設け、本国さえもそれを仕入れて販売するシフトへとかじ取りするのかもしれません。国内での軽自動車トップクラスメーカーという看板との両立でしょう。
その流れは今後を注目するとして「e VITARA」。バッテリー型電気自動車という冠をつけた「ビターラ」。なぜわざわざビターラを呼称するのかと言えば、世界的に知名度を持つ商品であるからですが、ハンガリーのビターラとの区別もなされる。一度はハンガリー版を四代目エスクードとして国内投入した経緯があるとはいえ、この発動機の区別が、果たして新しい世代のエスクードとしてどちらに転ずるのか興味が尽きません。
バブル経済末期に、四輪駆動車のニッチな市場を切り拓いた初代エスクードの時代から、ヨーロッパではビターラのネーミングを使用してきたけれど、ニッチな領域から昨今のSUV市場を出現させたことで、エスクードの役目は果たされたのかもしれません。僕は初代エスクードの二年目から「ウルトラスーパーな」エスクード馬鹿になっていますが、その馬鹿さ加減が感じることは、「e VITARA」はその名をもって世界戦略に臨むのだろうと。新しい株が生まれ育って行くのではないかと思っています。
僕ならそうする。
どこか、知らない所の話のような・・・
阪神淡路大震災の記録撮影は、当時応援に行った大阪の支社にすべて置いてきてしまい手元には何もありません。記憶だけは残っていて、あとから現地にほんの少しだけ出ただけでしたが、まさかの東日本大震災を仙台でくらった折に役立つものがありました。その後神戸を訪ねる機会はなく、10年前に広島県に向かう途上立ち寄っただけですが、そのときは高速道路の橋脚が破壊され桁が落ちていた風景はかけらもありませんでした。
「震災の記憶は我々でさえ風化しますよ。それは仕方のないことで、それでは何を伝えていくのかと言えば、あの惨状からどうやって、何をやって復興を進めてきたかを重視すべきです」
昨年秋、南三陸町の町長さんにお会いしたとき、そのような話を聞かせてもらいました。阪神と淡路の人々も、そうやって30年を過ごしてきたのだと思います。今年の年賀状に、ずっと神戸の支所で仕事を続けてきた同僚が、離職した旨のメッセージを綴っていました。彼も直向きに震災の記録集めと復興の道のりを歩んできた一人です。大阪との折り合いが悪かったと聞いていましたから、やることやりきって飛び出していったのだなと感じました。
長いこと看板に偽られ続ける
東関道の佐原から潮来区間が開通した頃、まだ僕はジムニーに乗っていました。この当時は「将来は鹿島(この頃の表記)まで路線が伸びるんだなー」と思っていました。当然のように千葉から水戸までつながっている国道51号の多重化路線として太平洋沿いに北上して水戸へ向かうものとばかり。左図の延伸になるとは想像もしていませんでした。いずれにしても550ccのジムニーで走るのは結構大変。潮来からは霞ケ浦沿いに移動するので水戸延伸は役に立たないし。
この延伸区間・茨城町から鉾田市に至る水戸線が開通し、残り区間があと二年くらいでつながるのですが、予定されているインターチェンジが麻生と北浦(たぶん14と15)。北浦の左岸を走るため、結局は鹿嶋には行かないというオチ。そのうち書き換えられるのかこのままほったらかすのか。と思ったら、さらに遠い将来、神栖方面への延伸が計画に乗ったとかで、いくらかは鹿嶋市内を通るのかもしれません。看板が偽りになりませんように。
今年もよろしくお願いします。(今更ですが)
仕事始めの6日と、翌7日に投稿した記事は 吹っ飛んでしまったそうなので改めて。 一週間姿を消してた理由は下記の通りでございます。 -------------------------------------------- 6日、普通に仕事して普通に晩ご飯食べて、寝て起きたら 発熱っしておりました・・・ 珍しく38℃も超えていて、すわっインフルエンザか?!と 近くの発熱外来受診して検査してもらったら 新型コロナ陽性 今、コロナ??? 大人しく寝てましたとも週末まで。 喉も痛くないし、咳もあまり出なかったけど 布団に横になったらほぼほぼ眠っちゃったって事は 身体は結構しんどかったのかしらねぇ・・・ 一週間まるっとほっぽった仕事を片付けていたら、 昨日は記事を書く時間もありませんでした(泣)