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  ~懲りない傾向~

高田松原の夜

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りくたか4年前はまだ水浸しの岩手県陸前高田沿岸部でしたが、一昨年から気仙川右岸の山を切り崩して嵩上げ用の土砂を運び、月ごろに搬出を終えた長大ベルトコンベアが、今は「奇跡の一本松」よりも有名となり、この地のランドマークとして横たわっています。

ここに見えているのはほんの一部。奥の方にあるはずの、希望の架け橋と名付けられた吊り橋は、光量不足で写りません。

まだ嵩上げ後のビルドアップは一部でしか始まっていないため、街であったここは静寂の夜の闇。コンベアの明かりは寂しさを紛らわせる心遣いなのかもしれません。

この町でも、一部の建物を残してほぼ、被災構造物は解体撤去されました。いままで、震災の記憶を風化させてはならないというひとつの考えを持っていて、その考えにブレはありませんが、記憶にとどめるために被災構造物を遺構として残すというやり方には疑問を感じ始めています。

モノが無ければ忘れてしまうものなのか?

先人がしてきたような、碑文では不足なのか。

震災以降保存に関する復興交付金を政府は認めるというけれど、交付金は、仮設住宅に住まう人々を1人でも多く生活再建の基盤に立てるように使うべきではないのか。具体的に言っちゃいますけど、学校の校舎や庁舎の鉄骨を残したい宮城県には、そういう事業は自腹でやってもらいたいと思うのです。

解体に向かっていたはずの町の建物を県有化し、保存か解体かを20年もかけ議論する時間と労力の意義は理解できない。すぐさま保存に向けて計画を始動させるというならまだしも、ね。

頭を冷やして高田松原の夜。いずれ、ベルトコンベアは役目を終えて姿を消していく。そのとき、奇跡の一本松は残るでしょうけれど、この町は過去を記憶にとどめながらも新しいリクタカで営みを始めるはず。宮城と岩手で、受ける印象が大きく異なるのは、岩手の人々には遺構が無くとも震災の記憶は伝えていけるという気概を感じられるからなのかもしれません。

敗者の構図

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大雨警報が出ているというのに三陸沿岸への仕事。夜には盛岡へ移動し仕事してビバークののち、日曜日には再び宮古という、天候にそっぽを向かれたら楽しくもなんともない週末の出張は、部下二人とじゃんけんの末決定しました。

えーそうですとも、最初の一回で負けましたよ。大槌町は吉里吉里の海岸で「ばかやろー! どこが梅雨入りだっ、これは台風だろーっ」てな叫びをしてきましたよ。

だいたいね、本来なら大槌と宮古なんて、30分程度の距離なんですよ。

夜、盛岡でなんて仕事さえなければなっ

社会資本の意義

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普代村明治29年だと、僕の曽祖父の時代ですから、当時を知る一族はすでにいません。その年の6月15日、三陸地方はマグニチュード8クラスの地震とともに、巨大津波の被害を受けました。その後の誘発地震の中でも、昭和8年の三陸地震も同規模の大被害を出していますが、これまたうちの親父が生まれる以前なので「すまん、岩手のことはわからん」(親父)というのが歴史。

ついでに言えば昭和35年のチリ地震も三陸に津波被害を与えているけれど、これも僕が生まれる前のことで、文献でしか知りません。が、宮古市田老や、ここ普代村の大田名部防波堤は、子供の頃に親父に連れられて見学に来たことがあります。なんせ子供の頃ですから身長が今より50cmは視線を低くしていたはずなので、田老の高さ10mの長大堤防でも要塞のように見えていました。

しかし東日本大震災の津波は、田老のそれは乗り越え、わずか5m高さの上回っていた普代村では防壁として機能し津波被害を防いだのです。

大田名部防波堤は昭和42年頃の完成。建設途上に起きたチリ地震の津波を防いだことで、その有用性を示しましたが、往時の普代の村長が周囲の批判を押し切ってまで、怪物のような防波堤と、これに連携する水門建設の主張を続けたことが、21世紀においても役に立ったということです。

それは明治三陸津波、昭和三陸津波における多大な被害を聞き知っていたことと、その歴史教訓を受け継ぎ伝えるという義務を果したからにほかなりません。

いま、景観を損なうとか、刑務所の壁のようといった批判で、新たな造られたり造られようとする防波堤に、ブレーキがかかったり待ったの声が上がったりの歴史の繰り返しがあるけれど、次に来るであろう津波がそれらを越流したとき、被害に遭う人々が出てからでは手遅れではないのかと感じます。

今しか見られない景色

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橋上建設中の三陸沿岸道の、地上から約90mくらいの高さの橋の上から眺めた大船渡の海。ここが開通する来年春には、陸前高田から釜石の手前まで山ふたつ三つを一気に越えられるようになりますが、高規格道路上なので車を停めることができなくなり、この景色をのんびり楽しむこともできなくなります。

なんかちょっと もったいない・・・

河港の町にて化かされた話

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川港1これも練習ということで、霰運転のロングツーリングを企て、津川の川屋敷を見物に出かけましたが、結果的には磐越を少し運転したにとどまり、自立の道は遠いねえと現地に。阿賀野川を利用した水運の拠点として、新潟県に位置していますが会津藩にとっては重要な場所だった津川。どの案内を見ても「日本三大河港のひとつ」という表記があるのですが、あと二つってどこ? と尋ねても、誰も答えてくれないという(一つは多分、利根川の関宿だと思う。もう一つは岡山県の旭川で勝山あたり?)

川港4屋敷の全容を撮る前にカメラが電池切れという体たらくで、見張と灯台を兼ねた望楼やら雁木の様子を記録できず。現在は新築された狐の嫁入り屋敷とともに改修されて交流館のような用途になっています。軒先の庇にあたる雁木の発祥の地でもあるとか。街並みの古い建築物には必ずそれが設置され、降雪対策の名残をうかがわせます。鉄道や道路が充実するまでは、この川岸に大量の木材用丸太が切り出され、巨大な筏群を見せていたそうです。

茶屋、という暖簾に目がとまり、うっかりくぐったら蕎麦屋でした。ワイルドな山菜天盛りのとろろ和えで昼飯とし、でもコーヒー飲みたいと喫茶の看板を見つけたら写真屋さんだったという(喫茶店もやってました)

なんだか狐につままれた感が強い日だねえと思えば、わざとらしい展開ですけど、この町は狐火伝説とやらの残る土地で、数日早く来ていれば「狐の嫁入り行列」なんていうお祭りが催されていました。

あらー・・・それは見てみたかったなと残念がっていると、霰がiphoneに記録している写真を呼び出し、参加してきたという友達から送信された、御供の狐装束姿を見せてくれまして、しかも、

「この子たち、さっき川屋敷の書画展に来ていたよ」

などとぬかしやがります。

 

おいっ、なんでそのときに言わねーんだっ

そういうところは信用ないのね、俺

 

2019年への旅立ち

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釜石市でアユの稚魚が放流されるのを見てきました。孵化から5カ月ものの稚魚は4~5センチくらい。これが海へ出て4年すると、おいしくなって大きく育って迷わずこの川筋へ戻ってくるというのが不思議です。

稚魚はそれなりのスタミナしかないだろうから流れに任せて河口へ向かうのかと思えば、本能的に遡上しようとするんですね。

川の両岸では、三陸沿岸道路を高架橋で渡すための橋脚が建設途上。稚魚が戻ってくる2019年には、頭上に橋がかかっているだろうし、奇しくも釜石においてラグビーワールドカップが開催されるのです。

今年放流される稚魚には、そういう見えないタグもついているんだねえ。

韋駄天前線

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角館葉桜

火曜日早朝の角館がこんな有様だったので、こりゃ秋田と青森はもう間に合わないなと(山形もほぼ間に合わなかったのですが)北上しましたが、数日前に大風が吹いて、各地の桜は満開のさ中に散り散りになってしまったとのこと。

「ピークが例年よりも一週間早かったですねえ。ゴールデンウイーク中のキャンセルが相次いでいます」

小坂はどうにか宿泊先のフロントでもそんな対話。そんなわけで前回の青森では早すぎ、今回は遅すぎました。

秋田県の小坂町でどうにか散り際直前の桜見物ができただけでも良しとするしかないです。谷あいの小坂は風の影響を受けないのが穴場ですが、本来ならもっと立派な満開になります。

津軽SA震災のあったあの春は、同じ時期に訪ねてきて「まだまだ早いよ」と言われたものでしたが、ことしはこちらの立ち上がりが合いませんでした。

青森県内で少しはましだったのはこれだけです。でもそんなんではあきらめもつきませんので、翌朝弘前へ・・・行ってはみましたがやっぱり葉桜。うぬぬぬ・・・もはや城跡などには頼れん。

そうなのだ、津軽は城跡だけじゃないのだ。津軽富士なのだ。とか勝手に決めつけ、岩木川を遡って行きまして、なんとか青森の風景を収めて帰ってまいりました。

1人で東北六県廻るなんて不毛すぎだった。宮城と山形は負け戦だったし・・・ 来年はもう少し精進します。桜の風景2015は、ひとまず北海道からの便りを待ちます。

季節は巡る

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青葉通り仙台市内のソメイヨシノはすでに見ごろを過ぎ、朝と夕とで街路樹の芽吹き具合が全く異なるほどに、ものすごい勢いで新緑の成長ぶりが目につくようになりました。青空駐車場だと日中さぼって昼寝していたら汗だくになってしまう日が出始め(さぼるんじゃねーよ)、ちょっと郊外に出ると、先日の話じゃないけど木陰を探して路駐しているご同業の車がちらほら。先日まではねえ、その日差しが恋しかったんだよねー。

 

しかしですよ。岩手県沿岸の仕事先までひとっ走りして、ショートカットしようと山越えなどしようものならまだまだ雪に閉ざされていてUターンを余儀なくされます。どうにか越えていけるルートも外気温を見たら3℃。

このときダートでリアが滑り、スタッドレスの丸坊主に悩まされオールテレーンに戻すきっかけとなりましたが、丸坊主よりはましとはいえ、まだ真冬の土地にも行かねばならぬのが予断を許しません。

あと6000キロちょっとで540000キロです。今年も少しずつ距離の伸びる季節が巡ってきます。このところ1カ月平均5000キロまでは走れていませんが、4000キロ平均で推移しても、来年の後半にはバッケンレコードに追いつくのか。さすがにその頃には飽きられて話題にも乗らんだろうねえ。

木   陰

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木陰断じて昼寝しに来たのではない。

昼寝してたら満開の撮影ができない。

盛岡へ向かう途中に見かけた並木に釣られて紫波で降りちまいましたが、しばらくボーっとしていたい気分になります。しかし世の中の世知辛いのは、こういうところで昼寝していると、知らないうちにその地域の不審者出没情報マップにマーキングされるご時世です。

岩手山まあここは橋の上から並木を写真に撮る人がけっこういたので、昼寝さえしていなければ問題なさそうでしたが。今年ようやくこんな穏やかな天気で桜見物できましたよ。盛岡市内はピークを過ぎていたので、道草して正解でした。

が、盛岡の仕事のあと足を伸ばした小岩井の一本桜はまだまだまったく咲いておりませんでしたので、立ち止まらず通り過ぎてしまいました。

美術家の軌跡

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「後のシリーズで良いものができないのは、それがデザイナーの仕事だからだ。美術家とデザイナーは向いている方向が異なる」

成田亨さんは90年代にウルトラの造形について持論を展開していました。芸術としての発想か、産業のための仕事か。という違いが明確にあって、美術家の生みの苦しみは生半可なものではなく、安易にウルトラマンに角など付けたりしない。と・・・

それはごもっともなれど、成田さんご自身もウルトラマンの形を仕上げていくプロセスでは、幾ばくかの迎合を余儀なくされたのではないかと思わされます。

だって、そうでなかったら、初代ウルトラマンがその後半世紀近く不偏の姿で居続けられるだけの、視聴者の受け入れは無かったと感じるのです。それくらい、美術家としての成田さんの作風は癖が強い。「突撃ヒューマン」と「ザラブ星人」なんて、ほぼ一緒の顔立ちですよ。ヒューマンがヒーローであったというのは、かなり異例のことだと。

いや、僕は「突撃ヒューマン」けっこう好きで見てましたけど。

しかしあれだけの数の原画が一堂に会すると、もう毒気に当てられた気分になります。全体の1割程度のメカニックの図版を逃げ場にしてしまいます。本質的に成田美術は苦手なのだわ。

そんな中でしばらく見とれていたのは、油絵で描かれた「波間のMJ」。うねりの中を突き進む、洋上の万能戦艦マイティジャックですが、船体よりもそのうねりの波の迫力がものすごい。その隣にあった「ピブリダーの帰還」も、夕映えの中から飛んでくる小型戦闘機の立体感と構図は、アニメ屋さんにはできない画だなあと感じます。

そのくせ、同じMJシリーズのアクリル画はちっとも面白くない。なぜってそれは、あまりにも商業的な絵だからなのです。

てなわけでこの企画展。混雑していないときに観ないとだめだなあ。もっともどんな展覧会もそうなんですけど。あとは、やっぱり成田さんに精通している学芸員さん(どれだけいるのやら見当つかない)を配置してくれないと、問い合わせても何も答えられないガイドじゃ話になりません。