海岸ライナー 完結編
いきなり完結編かいっ
まあ、昨日の記事で何しに走っていたのかは半分明らかになっちゃってますから。
実は下北半島の大間と三浦半島の三崎というのは、仙台からだとほぼ等距離なのです。しかしこの季節に下北へ向かう根性なんかありませんので、迷わず南下です。
和邇さんとエス爺さんの案内で行ってきたのは、三崎や城ケ島より少し東の江奈湾に面した地魚料理のお店で、その日の朝水揚げされたやつを出してくれるところ。この日はマグロ主体ではなくサバを軸にいろいろと見繕ってくれました。
席に限りがあり、常連さんはあらかじめ席取り表に名前を記入して他所に出かけていき、開店時間に合わせて戻ってくるようです。それくらい魚が旬で、うまい。
ところがすっかり忘れてたんですが、11月に歳暮の発送をしたとき、自分ち宛にも注文した三陸産のマグロの中トロが、BLUEらすかるを回収するために帰宅したら、絶妙のタイミングで配達されておりましたよ。
え? スペアリブはどうなったんだって? 朝一で食ってます。まあ自分への褒美の1日になるはずだったのですが、このあとの顛末がもう・・・
その辺は時系列に出していきますので、明後日まで待って。
海岸ライナー 胎動編
朝練フォーメーション
朝一番で石巻市に赴き仕事の準備をしていたら、矢本の方の空に「狼煙」が上がるのでしばし眺めていると、ブルーインパルスの飛行訓練。何度かデルタロールが繰り返され、その後上向きの空中開花やスタークロスを描いていました。
「前に野蒜で仕事していたときは、朝っぱらから頭の上でうるさいだけでしたよ」
とは、この日会った人との対話で出た言葉。
そういうものかもしれない。つくばーど基地の上空にF4が飛んでくると、あんなもんじゃ済まなかったから、T4の爆音はまだましな方かなと思いつつも、毎日となれば空自基地の周辺は確かにうるさいんでしょうねえ、ととりあえず肯定はしておこう。
まあそれでも抜けきった空に白いスモークを眺められる機会の少ない自分としては、素直に見とれるのです。
一昨年、こんな目に遭っていた北三陸。
仕事だから何度でも来ますけどね。
老体のぷらすBLUEでこの距離を走るのはしんどいんだよ!
てなわけで、写真は先週の普代村だったのですが、本日はこれより宮古市まで。でも目的地の関係で岩泉経由というルートが同じなので、宮古なら普代より仙台に近いと言っても、走る距離は大して変わらないのよ(泣)
しかもそのあと、六ヶ所村と西目屋村だよ(号泣)
常連にならない間合い
三千里 =11 781.8182 キロメートル。子供の旅する道のりと考えたら、現代でもなかなかのものです。ブログの記事三千件め(さっき、風花さんが上げてくれました)も、けっこうやったじゃん、と思うのですが、これ出力して書籍にでも・・・と言えるほどまともな記事を書いてこなかったことが悔やまれます。せめて挿絵くらいはとライブラリを探しまくったけれど、アメデオのぬいぐるみなんかありませんでした(そこか、三千)
仕方なく、アライグマぬいぐるみに被り物シリーズが出てきたころのやつなんですが、「フランダースの犬」と「あらいぐまラスカル」の間に「母をたずねて三千里」が制作されているということをイメージできれば(できねーよ)
そういえば「~三千里」が放送されていた頃よりずっと昔、担任の教諭が今で言う読み聞かせというのを毎朝やってくれて、十五少年漂流記だとかクオーレ(三千里、が収録されている)だとかいろいろな物語を読み上げてくれました。あれをちゃんと聞いていれば、もう少しましな人間になっていたのかもしれませんが、その頃問題児だったらしい僕は(本人は知りませんが、職員室ではそうだったらしい)教室の窓から遠くに見える裏山の稜線からロケットが飛び立ち、山麓の池が割れて巨大ロボットが現れ、神社の社から地下基地に入っていくというろくでもないことばかり思い描いていましたね。
想像は創造(オリジナル)でなければだめだ。という指向に行きつくのは、それからずっと後のことです。
川と国道をまたいで、陸前高田市の被災地に対岸の山を切り崩して土砂を運んでいたベルトコンベアが、その運搬作業を完了させ、解体工事が始まりました。去年の3月末から行われてきた土砂の運搬は、総量で約500万トンにものぼったそうです。
・・・だめだ、ピンとこないわ。
ダンプカーでこれをやっていたら、8年はかかっただろうというから、とてつもない仕事であったことは確かです。コンベアの大半は年内には姿を消すそうで、陸前高田の風物も見納め。来年には嵩上げした中心地で大型商業施設の建設も始まるとか。
この工事もすごいのだけれど、現場を訪ねてみて気づくのは、運ばれ積み上げられた土砂で見えなくなっていた、湾の防波堤の巨大な構造体がどんどん出来上がっていたことです(嵩上げ事業とは別の復興工事)
「でもね、隣の土産物屋の話だと、ここを見に来る観光客が激減したって。去年は今年に比べたら5倍の売り上げだったというから」
とは、ベルトコンベアの下方に所在する休憩所兼物販飲食施設の出店者のつぶやき。復興が進むということは、外の人々の風化も進むということなのでしょう。
震災以降、というよりあの冬に雪崩災害などがあって、長いこと立丸峠には近づいていませんでした。この国道バイパスなどは、5年前の夏に林道に出かけてきたときにはまだ工事中で、前方の山は切られていなかったように思います。うちのカーナビゲーションで仙台から宮古をルート指定させると、花巻から遠野経由でこれを通り、川井へ出て宮古に入れと指示してくるほどの最短距離コースです。
しかし酷道とまで言わぬまでも、ここから先の後衛山を横断する立丸峠の宮古側は、舗装化されているからこそ対向車には出会いたくない急峻で狭隘なコーナーの連続区間が残っています。だから災害復旧が終わっても、好んではいかないルートで、峠を越えにやって来たのは実に四半世紀ぶりにもなっていました。リンク先の写真は宮古側、今回の写真の反対側です。この遠野側も以前はここまで幅員が無かった。今を去ること32年前、宮古からここを抜けてきたときは全線がダート。熊とも遭遇しました。
今、この峠は約3キロちょっとの2本のトンネルと道路改良で快適に越えられるようにする工事が進んでいました。昔からある看板も、昔は「早期実現を」だったものが、いよいよ開通予告をするまでになっています。峠前後の山麓はバイパス化が行われていたわけですが、実に30年越しの実現なのかと思うと、あのダートを知っている自分でも感無量な気分です。遠野物語編纂からは、105年めの夏。2本のトンネルのうち1本目が貫通していました。もう1本も秋には着手するそうです。