Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

さらに漂流してます

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東北道金曜日に宮古市まで行った足で諏訪湖と八ヶ岳をスイングバイし、そのまま仙台には戻らず女川経由で六ヶ所村という、誰が好んでやるものか!な今週の始まりです。16日の夜に仙台にタッチアンドゴーして米沢から会津若松へ向かいます。

誰だよこんなシフト組みやがったのはっ・・・え? 何この新しいリリース・・・

20日にまた宮古へ行けとのことです。

・・・・

壊れたらどーすんだよーっ

漂流中につき不在です

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1958年の今日、月探査のためにパイオニア1号が打ち上げられ、さらに10年後の今日、アポロ7号が打ち上げられたエピソードとは関係なく(ないのかよ)、軌道など未定のまま漂流してきますので、基地にも作戦室にもおりません。

土曜日は諏訪湖の西側、日曜日は八ヶ岳山麓あたりにいますが、ものぐさですからまず登山はしていないはず。

BLUEらすかるを見かけて声をかけてくれた人にはお茶の一本も振る舞わせていただきます・・・つて、一本てなんだよ。と、実際には三本用意していましたが、こんなんで声がかかるんだったら今頃とっくに著名人になってるわ。

長野県も山梨県も、台風の動向を気にしていたのですが出かけてみれば快晴。蓼科高原に上がれば浅間山が、白樺湖から霧ヶ峰まで進めば八ヶ岳から南アルプス、北アルプスに加えて富士山までもが雲海から顔を出していました。

前日午後、宮古から盛岡に移動した折、岩手山が雲一つなく眺められたことに続いての慶事です。天候に恵まれて、道が空いているというのがなんとも幸運。

ただし紅葉はまだちょっと早かった。これは午後に走った林道でも同様でした。が。何から何までうまく行くというのも虫が良すぎます。

辰野で、午後の林道はTA01Wさんと青影さんが企画した諏訪湖西側の林道散策とキノコ料理の一泊というやつに、林道だけ合流させていただきました。

SPFYOさんとkawaさんの後に続いて走るのですが、あんたらペース速すぎだぜ(汗)

我々は辰野で別れて宿に向かいまして、今に至ります。あとはまた明日。

 

三年半の景色

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市場石巻市の港周辺は、水産業関連の民間施設がずいぶん復旧してきました。旧盆前には魚市場の一部も操業再開しており、残りのブロックでも建屋の工事が進んでいます。工事中の市場の岸壁に漁船が接岸しているというのは不思議な光景です。

ここが完成すると、端から端まで800mを超える岸壁と市場建屋となり、東洋一の規模になるのだとか。3年前の今頃はまだヘドロのにおいが立ちこめ、全壊した建物とがれきの山でしたし、地盤沈下で海水が入り込み一帯が冠水していたのですから、よくここまで復興したなあと思わされます。

門脇旧北上川をはさんだ対岸のの門脇地区などはまだまだこれからの風景ですが、このあたりもまたがれきと廃墟の荒れ地でした。そこら中に積み上げられていた自動車のスクラップも、いつしか姿を消し、火災で中が焼けてしまった小学校の校舎をのぞけば、3年半の昔に何がおきたのかはもうわからなくなってしまったかもしれません。

ここは自主再建する人々のための区画整理が始まっており、3メートルくらいの土地のかさ上げが行われます。看板のあたりから向こう側には復興祈念公園が整備されるそうです。あと3年もすると、全く新しい町に生まれ変わるでしょう。

日和大橋二つのエリアを結ぶ、旧北上川をわたる日和大橋も、出退勤時間は混雑しています。でもべた踏みをするほどの坂じゃない。そう見せるのには、ちょっと望遠が足りなかった。

しかし橋の名の由来となっている、ここからみた向こう岸にある日和山には、北側斜面に思わずべた踏みしたくなる「物見坂」というのがあります。自分で通ったのが下りだったので、そういう傾斜に見えたのかもしれませんが、積雪時には行きたくないなあという坂道です。

石巻百景というウェブサイトがありますので、そちらをご覧ください。物見坂の下からの風景は旧サイトにありました。

それにしても記事をアップロードした数時間後に、女川、石巻から東松島にかけて時間あたり120ミリの豪雨で、各所に床上浸水被害が出て、大雨洪水警報と共に土砂災害の警戒も開始されているようです。変わってきたとは言えどもまだ復興は途上の街。けが人や二次災害が起きないことを祈るばかりです。

 

バビロンプロジェクト

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バビロンでもレイバーがいません。

いや、いなくてもいいんだけどね。

 

 

擦れ違いにもならず

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どこだおっ、最終型のTA01Wでしかもうちのと同じ色ではないか!

となりに並んじゃうかな? とわくわくしたら、カーナビゲーションが

「まもなく左折です」

どちくしょーっ(笑)

てなわけで第3種接近遭遇に失敗したこの交差点が何処だったか、わかった人はコメントをどうぞ。

鉄路の跡

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路線城県の南の沿岸を移動していて、道と併行してすぐそばに未舗装のベルト状のゾーンに気がつきました。よくよく眺めてみたら、仙台といわきを結ぶ常磐線の軌道跡でした。

震災の年に予定通りダイヤ改正が行われていれば、スーパーひたちは新型に移行し上野・仙台の直通便が激減、たいていの場合いわき乗り換えを余儀なくされていたはずでした。

現在、常磐線のこの区間はもっと内陸において復旧工事を始めている(のかな?)のですが、転勤から震災までの一か月ちょっとの間、この路線で移動したのはたった一度きりでした。

そして船は飛ぶ・・・?

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ふね先日の新潟行で、待ち合わせまでの間に海岸を散策していたところ・・・

 

船が飛んでおりましたよ。

 

黄砂の夕暮れ

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黄砂むー・・・もうちょい繁華街の近くに泊まるべきだったか。

というのが前日夕暮れのこと。今日はあそこまで足を伸ばしてます。

言っておきますが、仕事です。

静かの海にて

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住田かなり飛躍した表題です。岩手県気仙郡は、たったひとつ住田町だけが構成する郡で、近代においては沿岸の旧三陸町も含まれていましたが、旧三陸町は大船渡市と合併したため、住田町には海がありません。

なんで海の話を持ち込むんだ?と言えば、気仙という地名に諸説があり、アイヌ語でたどれば「端」を意味するケセに、「入江」を示すモイがくっついてケセンに訛ったと言われています。その途上に存在したらしいケセモイという言葉は、アイヌ語では静かな海と表すそうです。日本語では、ケセマとかケセンというのは「船着場」、「かせ」のことだとか。

気仙郡という郡名が日本史に出現するのは『続日本紀』の弘仁二年の条だそうですから、9世紀まで遡ります。ということは、それよりも昔に成立している郡単位であり、歴史的にも古い地名です。そこに示される陸奥国気仙郡は、現在の宮城県北東部から岩手県南東部にかけての広大な地域です。同じルーツが名前となっている宮城県の気仙沼市なんかも取り込まれていたということですね。転勤したときに知ったことでしたが、気仙川という川は気仙沼ではなく陸前高田市に流れていたのは、そういう歴史的背景があったからなのでした。

しかし9世紀以降何度も何度も小村が成立したり合併したりを日本全国で何度となく繰り返してきましたから、仙台藩が統治していた幕末には24もの村だったものが、維新後の明治9年4月に 第2次府県統合として宮城県の管轄になったものの、なんとその翌月には岩手県に移管されてしまいました。

それが明治9年5月25日のことです。

こうして明治11年の秋に郡区町村編制に基づく行政区画として気仙郡が発足しますが、これは現在の大船渡市と陸前高田市、さらに釜石市の唐丹を含んでいました。郡の役所は今の大船渡市に位置する盛村に置かれたというので、やはり海や入り江に因んだ地名だったのです。

ところが今度は昭和30年に 高田町・気仙町・広田町・小友村・竹駒村・矢作村・横田村・米崎村が合併して陸前高田市が発足し、郡内に残った世田米町・上有住村・下有住村が合併して住田町となるのです。ああ、ようやく住田町の登場です。が、ここでも不思議なのは、ケセンの名を受け継いでいた気仙町が群を離れて合併の際に消滅してしまったこと。岩手県内でケセンのルーツを継承し続けたのが、住田町という結果となりました。

住田町は、あの種山高原の一部や五葉山など、標高では600から1300mに及ぶ山々に囲まれています。それらの山頂に赴けば、リアスの入り江と太平洋を眺めることはできますが、近代政治と地方自治の事情と都合によって、気仙郡であっても海は存在しないのです。

そればかりか、この界隈の林道は岩盤の風化が激しく、なかなか手ごわい。ツーリングマップル上で大船渡へ抜けられると書かれていても、油断してはなりません。森林と林業で日本一を目指している住田町ですが、荒れているルートはとことん荒れています。

だから面白いというのは内緒ですが、ケセンというアイヌの言葉ケセマのルーツにはもう一つの説があり、ケセ が「削る」、マが「場所」であるとか。これはリアスの地形が削られた場所という意味を持つのだと思われますが、林道のいくつかも削られてます。

あー、ようやくオチにたどり着いたよ・・・と落としてはいけない。ケセナンやケセマ、ケセモイという言葉が、アイヌ語では静かな海と意味することが大事なところで、「静かの海」という場所がもう一つ、空の上にあるからです。

人類初の月着陸の地のことです。

 

遺される風景

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女川町宮城県女川町の漁港周辺。周辺の山を削って低地の嵩上げが進んでいますが、倒壊した建築物はまだそのまま。震災遺構として保存していくのでしょうか。この建物はこの場所でひっくり返ったのではなく、建設された場所から浮き上がってずれながら横倒しになったとか。復興事業が完了する数年後には、周辺の町の姿は大きく変わっていくはずですが、この建物が残るとすれば、津波の破壊力のすさまじさを伝える役目を担うことになります。でも、きっとこの手の遺構は避難教訓の対象にはならず、奇異なモノとしてしか耳目を集めなくなり、やがて何も感じてもらえなくなるのです。