地元にいた頃は土浦の七夕と霞ヶ浦の湖上祭りとその花火大会が重なり、渋滞しても脱出しやすいところに車を隠して遊びに出ていましたが、仙台七夕は比較したら土浦がかわいそうなくらい規模が大きい。仙台もやっぱり前夜祭で花火大会が5日の宵にありますけど、広瀬川あたりで打ち上げるために市街地が近くて、尺玉の大きいのはご法度なのだとか。そこだけは霞ヶ浦の方が大迫力・・・だったのも昔の話です。今日から3日間、仙台は七夕まつり。仙台にいられればの話ですが。
木曜日の夜まで青森県で仕事をしていて、金曜日が朝から岩手県の岩泉という業務のため、哀しいことに車中泊の移動を強いられた深夜。緊急エリアメールはならなかったけれど車全体が揺さぶられて飛び起きまして、まずはラジオ。
岩手県沿岸北部を震源の地震で、内陸では震度5弱を記録していると。沿岸北部って、この辺も北部じゃん。
冗談じゃないよ。と車外に出ると、まだ真っ暗なので眼下の海岸などは見えるはずもなく、同様に車中泊していたトラックから出てきた兄ちゃんと立ち話。津波の危険はないとすぐに判明したので、お互いに二度寝しますかと車に戻ったけれど、そんなに簡単に寝付けるわけもなく、明るくなっていく窓の外を眺めたり昨日青森の書店で購入したスーパースージー(かわねこさんレポートが掲載されてます)に目を通したりで、不毛な夜明けとなります。
トラックの兄ちゃんは一足先に出発していき、ポケットパーキングに取り残された僕は、テレビニュースの各局の報道を見るためBLUEらすかるのエンジンを始動させます。さすがにフルセグは受信できず、画面の粗いワンセグで確認すると、震源地はもう少し北の方で、このあたりは震度4だったらしい。いやー、そんなもんでよかった。日本列島の南の方では台風が猛威をふるっている中、三陸の海は山瀬の海霧で15℃の寒さ。ニュースの話題とは裏腹に静かすぎる朝でした。
しかしなー、こんなとこで夜明かし待機して仕事なんて、自慢にもならないぜ。
4年前はまだ水浸しの岩手県陸前高田沿岸部でしたが、一昨年から気仙川右岸の山を切り崩して嵩上げ用の土砂を運び、月ごろに搬出を終えた長大ベルトコンベアが、今は「奇跡の一本松」よりも有名となり、この地のランドマークとして横たわっています。
ここに見えているのはほんの一部。奥の方にあるはずの、希望の架け橋と名付けられた吊り橋は、光量不足で写りません。
まだ嵩上げ後のビルドアップは一部でしか始まっていないため、街であったここは静寂の夜の闇。コンベアの明かりは寂しさを紛らわせる心遣いなのかもしれません。
この町でも、一部の建物を残してほぼ、被災構造物は解体撤去されました。いままで、震災の記憶を風化させてはならないというひとつの考えを持っていて、その考えにブレはありませんが、記憶にとどめるために被災構造物を遺構として残すというやり方には疑問を感じ始めています。
モノが無ければ忘れてしまうものなのか?
先人がしてきたような、碑文では不足なのか。
震災以降保存に関する復興交付金を政府は認めるというけれど、交付金は、仮設住宅に住まう人々を1人でも多く生活再建の基盤に立てるように使うべきではないのか。具体的に言っちゃいますけど、学校の校舎や庁舎の鉄骨を残したい宮城県には、そういう事業は自腹でやってもらいたいと思うのです。
解体に向かっていたはずの町の建物を県有化し、保存か解体かを20年もかけ議論する時間と労力の意義は理解できない。すぐさま保存に向けて計画を始動させるというならまだしも、ね。
頭を冷やして高田松原の夜。いずれ、ベルトコンベアは役目を終えて姿を消していく。そのとき、奇跡の一本松は残るでしょうけれど、この町は過去を記憶にとどめながらも新しいリクタカで営みを始めるはず。宮城と岩手で、受ける印象が大きく異なるのは、岩手の人々には遺構が無くとも震災の記憶は伝えていけるという気概を感じられるからなのかもしれません。
明治29年だと、僕の曽祖父の時代ですから、当時を知る一族はすでにいません。その年の6月15日、三陸地方はマグニチュード8クラスの地震とともに、巨大津波の被害を受けました。その後の誘発地震の中でも、昭和8年の三陸地震も同規模の大被害を出していますが、これまたうちの親父が生まれる以前なので「すまん、岩手のことはわからん」(親父)というのが歴史。
ついでに言えば昭和35年のチリ地震も三陸に津波被害を与えているけれど、これも僕が生まれる前のことで、文献でしか知りません。が、宮古市田老や、ここ普代村の大田名部防波堤は、子供の頃に親父に連れられて見学に来たことがあります。なんせ子供の頃ですから身長が今より50cmは視線を低くしていたはずなので、田老の高さ10mの長大堤防でも要塞のように見えていました。
しかし東日本大震災の津波は、田老のそれは乗り越え、わずか5m高さの上回っていた普代村では防壁として機能し津波被害を防いだのです。
大田名部防波堤は昭和42年頃の完成。建設途上に起きたチリ地震の津波を防いだことで、その有用性を示しましたが、往時の普代の村長が周囲の批判を押し切ってまで、怪物のような防波堤と、これに連携する水門建設の主張を続けたことが、21世紀においても役に立ったということです。
それは明治三陸津波、昭和三陸津波における多大な被害を聞き知っていたことと、その歴史教訓を受け継ぎ伝えるという義務を果したからにほかなりません。
いま、景観を損なうとか、刑務所の壁のようといった批判で、新たな造られたり造られようとする防波堤に、ブレーキがかかったり待ったの声が上がったりの歴史の繰り返しがあるけれど、次に来るであろう津波がそれらを越流したとき、被害に遭う人々が出てからでは手遅れではないのかと感じます。
今しか見られない景色
河港の町にて化かされた話
これも練習ということで、霰運転のロングツーリングを企て、津川の川屋敷を見物に出かけましたが、結果的には磐越を少し運転したにとどまり、自立の道は遠いねえと現地に。阿賀野川を利用した水運の拠点として、新潟県に位置していますが会津藩にとっては重要な場所だった津川。どの案内を見ても「日本三大河港のひとつ」という表記があるのですが、あと二つってどこ? と尋ねても、誰も答えてくれないという(一つは多分、利根川の関宿だと思う。もう一つは岡山県の旭川で勝山あたり?)
屋敷の全容を撮る前にカメラが電池切れという体たらくで、見張と灯台を兼ねた望楼やら雁木の様子を記録できず。現在は新築された狐の嫁入り屋敷とともに改修されて交流館のような用途になっています。軒先の庇にあたる雁木の発祥の地でもあるとか。街並みの古い建築物には必ずそれが設置され、降雪対策の名残をうかがわせます。鉄道や道路が充実するまでは、この川岸に大量の木材用丸太が切り出され、巨大な筏群を見せていたそうです。
茶屋、という暖簾に目がとまり、うっかりくぐったら蕎麦屋でした。ワイルドな山菜天盛りのとろろ和えで昼飯とし、でもコーヒー飲みたいと喫茶の看板を見つけたら写真屋さんだったという(喫茶店もやってました)
なんだか狐につままれた感が強い日だねえと思えば、わざとらしい展開ですけど、この町は狐火伝説とやらの残る土地で、数日早く来ていれば「狐の嫁入り行列」なんていうお祭りが催されていました。
あらー・・・それは見てみたかったなと残念がっていると、霰がiphoneに記録している写真を呼び出し、参加してきたという友達から送信された、御供の狐装束姿を見せてくれまして、しかも、
「この子たち、さっき川屋敷の書画展に来ていたよ」
などとぬかしやがります。
おいっ、なんでそのときに言わねーんだっ
そういうところは信用ないのね、俺