今回の岩手行きで、偶然見知ったのが「遠野物語100年」という年回り。しかし実にこっぱずかしいことに、うつろいすぎた自分の記憶は、その年回りをすっかり忘れていたのです。
この写真は1990年の夏のもの。国道340号線で、岩泉から遠野に向かう途中の立丸峠で撮影したのですが、それ以前、免許取り立てでまだ四駆に乗っていなかった頃、この国道は川井村から遠野市まで全線ダートでした。
しんどい思いをして越えてきたことが焼き付いていて、エスクードを手に入れ、僚機のテラノとつるんでリベンジだと来てみれば、わずか数年のうちに全線舗装化されていたという・・・ そういう写真です。
ちなみにこれが、つくばーどの前身の、あと2台デリカスターワゴンとJA51Wが加わる不良集団の姿です。なにがこっぱずかしいかって、当時の不良な姿などではなく、これが1990年の夏の撮影だということ。実はこの年、妹・嵐田吹雪の短大における卒論の取材をかねて、遠野に来ているのですが(本人がいないのは、写真を撮っているため)、その卒論のテーマが、僕がそそのかした「遠野物語」でした。
当時、いや今でも、遠野物語は日本の民俗学の草分け的な編纂業績をたたえられていて、子供向けには民話、大人向けにはその民俗学を通した東北地方の厳しい生活環境やそこに暮らす人々を、伝承が包み込む、幻想的であり、またおどろおどろした暗い伝え語りを書き記しています。がしかし、そんなに遠野物語の世界は暗く重いだけの救いようのないものだったのか? という、物語のとらえ方に逆説の仮説を立ててみてみようという目的が、卒論の目的だったのです。
たとえば、遠野物語に記されている「デンデラ野」という民話。昔、老人たちは60歳になると家庭や集落から捨てられ、日中は里に下りて農作業を手伝い、夕方わずかな食料を得てデンデラ野の小屋に帰り、寄り添うように暮らしながら、命の果てるのを静かに待った・・・と伝えられています。
その側面だけを見れば、楢山節考を彷彿とさせる姥捨ての話ですが、現地を訪ねてみると、「里と山」ほどの距離を隔ててはいないのが、デンデラ野と呼ばれる土地の位置関係。そこに老人だけのコミュニティーが置かれ、里と隔絶されていたかというと、どうもそんな風には思えない。お年寄りの脚力でも行き来は可能で、老後は家督を子の世代に譲り、自らは過酷な労働や税から解放されて、話の合うもの同士の共同生活を営むコミューンではなかったのかと、僕自身はずっと昔から感じていたのです。事実、昼間は畑仕事の手伝いや子守をしていて、里とのつながりを断ち切っていない。それは、単なる口減らしではなくて、隠居というスタイルの一つの形だろうと思うのです。
そんな切り口で、意外と力強く活きていたかもしれない遠野物語の住民たちをトレースしようと(ほんとは林道探検に行ったんだけど)、「遠野物語80周年」という機会を逃さず、出かけていたのでした。
あー・・・ そういえばそうだっけよ。あれからきっちり20年だよ。あんなに入れ込んでいた遠野物語のことを、これほど情けなくも忘れていたとは!