先日の新潟行で、待ち合わせまでの間に海岸を散策していたところ・・・
船が飛んでおりましたよ。
かなり飛躍した表題です。岩手県気仙郡は、たったひとつ住田町だけが構成する郡で、近代においては沿岸の旧三陸町も含まれていましたが、旧三陸町は大船渡市と合併したため、住田町には海がありません。
なんで海の話を持ち込むんだ?と言えば、気仙という地名に諸説があり、アイヌ語でたどれば「端」を意味するケセに、「入江」を示すモイがくっついてケセンに訛ったと言われています。その途上に存在したらしいケセモイという言葉は、アイヌ語では静かな海と表すそうです。日本語では、ケセマとかケセンというのは「船着場」、「かせ」のことだとか。
気仙郡という郡名が日本史に出現するのは『続日本紀』の弘仁二年の条だそうですから、9世紀まで遡ります。ということは、それよりも昔に成立している郡単位であり、歴史的にも古い地名です。そこに示される陸奥国気仙郡は、現在の宮城県北東部から岩手県南東部にかけての広大な地域です。同じルーツが名前となっている宮城県の気仙沼市なんかも取り込まれていたということですね。転勤したときに知ったことでしたが、気仙川という川は気仙沼ではなく陸前高田市に流れていたのは、そういう歴史的背景があったからなのでした。
しかし9世紀以降何度も何度も小村が成立したり合併したりを日本全国で何度となく繰り返してきましたから、仙台藩が統治していた幕末には24もの村だったものが、維新後の明治9年4月に 第2次府県統合として宮城県の管轄になったものの、なんとその翌月には岩手県に移管されてしまいました。
それが明治9年5月25日のことです。
こうして明治11年の秋に郡区町村編制に基づく行政区画として気仙郡が発足しますが、これは現在の大船渡市と陸前高田市、さらに釜石市の唐丹を含んでいました。郡の役所は今の大船渡市に位置する盛村に置かれたというので、やはり海や入り江に因んだ地名だったのです。
ところが今度は昭和30年に 高田町・気仙町・広田町・小友村・竹駒村・矢作村・横田村・米崎村が合併して陸前高田市が発足し、郡内に残った世田米町・上有住村・下有住村が合併して住田町となるのです。ああ、ようやく住田町の登場です。が、ここでも不思議なのは、ケセンの名を受け継いでいた気仙町が群を離れて合併の際に消滅してしまったこと。岩手県内でケセンのルーツを継承し続けたのが、住田町という結果となりました。
住田町は、あの種山高原の一部や五葉山など、標高では600から1300mに及ぶ山々に囲まれています。それらの山頂に赴けば、リアスの入り江と太平洋を眺めることはできますが、近代政治と地方自治の事情と都合によって、気仙郡であっても海は存在しないのです。
そればかりか、この界隈の林道は岩盤の風化が激しく、なかなか手ごわい。ツーリングマップル上で大船渡へ抜けられると書かれていても、油断してはなりません。森林と林業で日本一を目指している住田町ですが、荒れているルートはとことん荒れています。
だから面白いというのは内緒ですが、ケセンというアイヌの言葉ケセマのルーツにはもう一つの説があり、ケセ が「削る」、マが「場所」であるとか。これはリアスの地形が削られた場所という意味を持つのだと思われますが、林道のいくつかも削られてます。
あー、ようやくオチにたどり着いたよ・・・と落としてはいけない。ケセナンやケセマ、ケセモイという言葉が、アイヌ語では静かな海と意味することが大事なところで、「静かの海」という場所がもう一つ、空の上にあるからです。
人類初の月着陸の地のことです。
一般公開の始まったサルバドール・ダリ展に招かれ、磐梯山の裏側まで出かけてきました。そこに近代美術館があるのは知っていましたが、世界に三か所しかないダリ専門の収蔵・展示のひとつだとは思わなかったので、もの知らずの露呈もいいところです。諸橋近代美術館は、スポーツ用品店で知られるゼビオの創設者である故諸橋廷蔵さんのコレクションが収蔵されており、ことしが開設15周年、ダリの生誕からは110年めにあたるのだそうです。ピカソをはじめとする西洋近代作家などダリ以外で30人の作品も含めると403点が収蔵されていますが、ダリだけでも339点に及ぶから、いわゆるダリ美術館としてはとてつもない規模なのです。
6月末まで開かれている企画展には、そのうちの49点が公開され、その一部は公開終了後にはメンテナンスを兼ねて収蔵庫にしまわれてしまうため、貴重な機会をいただきました。それよりも複数者の作品を一堂に・・・というより、1人の作風をじっくりと眺められるという時間は、造詣の浅い自分にとっては良い学習になります。ダリっつったらシュルレアリズム・・・かと思い込んでいたら、まあだいたいそうなんですけど必ずしもそれだけではないのがわかります。
じゃあダリは好みかと問われると、これはむしろそうじゃないなあというのが本音で、好んで解釈していくには時間を要するのが感想というところ。ちょっとだけ目に留まって眺めたのは「風景の中の人物」でしたが、これも、いいなあという印象ではなくて、構図上のレイアウト(画の天地の取り方)がなんでこうなるんだろうという疑問だとか、「人物」が描かれないとダメだったのはなんでなんだろう? とかいう部分でした。
てな余計なことを考えながら帰ってきたら、美術館サイト内にある館長さんのブログに内覧会の模様が出てました。まさに余計な「人物」が見切れた風景です。
そりゃまあ緋寒桜だから開花が早いのは当たり前です。東京もまだソメイヨシノは蕾と言っていいでしょう。東京大空襲で焼け野原となった墨田区の戦没者慰霊と戦災復興を記憶している東京都立横網町公園の、清澄通り側の入り口にあるエドヒガンは満開。奥の慰霊堂は耐震補強工事を進めているようです。そういえば今年は関東大震災から数えても90年めです。
しかし仕事で来ているので、カメラなんか持っていません。携帯電話内蔵のカメラは、レンズ部分のカバーに傷が入っていてフレームの左側が歪んでぼやけてしまうのが泣けてきます。
浅草で見つけた十月桜も、分類としてはエドヒガンの仲間でコヒガンの雑種だそうですから、やっぱり満開。六区通りを歩いていて、一本だけ植樹されている不思議な風景ながら、見事な咲きっぷりです。蔦屋さんという袋物のお店の軒先ということは、蔦屋さんが植えたものなのか。軒の看板の緑色の屋号とのコントラストが実に良い彩を見せてくれています。
やーしかし歩いた歩いた。車で移動していたら、仮に気がついても素通りするしかないので、たまには鉄道で上京してくるのも悪くないです。
盛岡というとなんとかの一つ覚えのように福田パンに通い詰めて、コッペパンをかじりながら車で移動というパターンが多かっただけに、実は食い物屋さんの情報にまったく蓄積がありません。以前、郷土料理っぽい料亭にふらっと入り込んだことがあったけれど、それが何処だったか覚えておらず、ランチのボリュームに対してワンコイン?というありがたい喫茶店の場所も思い出せず、仕事先近くの路地を歩いていて時間を見たら正午をちょっと過ぎていて、こりゃ何処もいっぱいで選択の余地はないかなと立ち止まったところに置いてあったランチメニューの書かれた黒板が目に入って、するっとドアを開けました。
10人分のカウンター席のみ(奥の2人分は厨房の仕切り壁によって手元のテーブル面積が半分)の、なかなかジャンク趣味的な佇まいに「よしよし、こういうとこ好きだぜ」と席を取ったら・・・というより店内に入った瞬間、客がいない。12時半。まず仙台ではそういう店はお目にかかれない。
「うちに来るお客さんは11時台の後半にお昼ご飯にいらして、12時ちょっと過ぎには帰られますね。それ以前にあちこちに飯処から喫茶店までひしめき合っているのが盛岡の街ですから」
店を切り盛りしている青年と話をしながら、盛岡の人の方が勤勉なのか、あるいは昼時の食事とお茶は別々に時間を割り当てているのか。などと考え考え、ランチのオムライスを食っていますが、やっぱりお客が来ない。むー・・・ここは昼どきというより夕方以降の店のようだなあ。
するとようやく1人、常連らしきお客がやってきたのですが、
「1時間後くらいに持ってきて―。会計は今していくね」
おお、デリバリーもやっていたのか。オーダーされたものをメニュー表で見てみたら、クラブハウスサンドやらホットドッグやら、パンにメニューに使われているパンは福田パンから供給されている。献立自体のバリエーションはずいぶんと豊富で、よく1人で切り盛りしていると思いきや、その配達に出ていたもう1人が戻ってくるのでした。
で、この間、カウンターは僕1人。まるでエアポケットに入り込んでしまったようなのんびりの昼飯です。ただし、ふわふわの卵は上手だけれど、チキンライスに関しては、たぶん僕の方がうまく作れるぜ(笑)
岩手県陸前高田市は湾に面した街であったことから、その中心地はほぼ壊滅し、地盤沈下によって国道直近まで入江のような水際ができています。高田松原の六万とも七万とも言われた松林も、あの一本を除いて消失しました。今なお一面の荒野です。が、被災前の空撮写真と比べると、市街地と農地が混在しておりけっこうな面積の農地が広がっていたこともわかります。
ここに昨年から気仙川をまたいだ巨大な吊り橋がかかり、これが今年に入ってとてつもない勢いで拡散・延伸していて、さながらジェットコースターでも作り始めたのかと勘違いするほどの変貌です。
もちろんこれはジェットコースターなどではなく、ベルトコンベア。川の向こう岸にある山肌を削り取った土を、被災地の土地の嵩上げのために使われる装備です。山ひとつ削って捻出する量の土砂なので、ダンプトラックでちまちまと運搬していては時間がかかりすぎるし、ダンプトラック自体があちこちの被災地でフル稼働していて台数が足りないのだから、ベルトコンベアで運び出そうという考えです。
嵩上げの工事が完了するまで、陸前高田の今ならではの風景になるでしょう。宮城県の東松島市でも、ここより少し規模の小さいベルトコンベア網ができています。ずっと昔、福島県の小名浜の港を整備したとき、同じように背後地の山から何キロもの距離を何条ものベルトコンベアが掛けられて土砂運搬に活用されたそうで、それと同じ発想。しかし当時は高度経済成長期のイケイケな機械化で、現在はマンパワー不足を補う機械化。それも復興という大前提が無ければ決意しないだろうというチカラの発揮です。