乗ってきたぜ、と言いながら、実ははやぶさが5日から一般運航開始だということを知らずに乗っていました。しかし仙台と盛岡の間だと、時速300キロは出ていないので、はやてに乗ってもたいして時間は変わらないみたいです。
仕事中です 念のため
街角にて
アウトレットものを前に腕組みする004ことアルベルト・ハインリヒ。戦闘用の防護服スタイルではありますが、彼の日常は長距離トラックの運転手。自分が運んだ荷物が無事に店頭に並んだかどうかを確かめに来ているのかもしれません。
今回は街角探訪をしている余裕がなかったのですが、石巻の駅前を中心とする繁華街では、あちこちに石ノ森キャラクターが佇んでおり、来客を待ち受けています。これがオブジェでなくて、アンドロイドか何かで動いて歩いているのを見るような時代も来るのかなあ。
中洲へ渡る橋の袂から見えてくる石ノ森萬画館は、登米市中田町の石ノ森章太郎ふるさと記念館とともに、ことし、開設10周年を迎えます。
サムネイルだと建物の左半分が切れてしまっていますが、宇宙船のイメージを表現しています。こちらから見えるディティールは「後ろ側」らしいです。なぜかというと、3階にあってコクピットをイメージしたというカフェの窓が、旧北上川の河口の方を向いているから。あそこは操縦室ではなく、単なるラウンジかと思っていた・・・
館内は展示スペースと映像ホールの撮影が禁じられています。順路に従って展示物を見ながら上へ上へと螺旋状に見学していけますが、ところどころにギミックも仕掛けられています。エレベータはギミックといえるほどのものではありませんが、御覧のように井上和彦版島村ジョーがアナウンス。
「君はどこに降りたい?」
それは002ことジェット・リンクのせりふだよ・・・
逃亡っつたって仕事は休日です。日中、少しは走らせないとバッテリーが心配なので、こちらへ来て初めての、仙台の外へ散歩に出かけました。
全然絵になっていませんが、背景は松島湾です。位置関係を呑み込めていなかったのですが、知らないうちに登米市まで伸びていた三陸自動車道を使わなくても意外と近所。これなら三陸道も利用すれば石巻まで足を延ばしてもお散歩コースです。なるほど丘を越えて下りはじめに見えてくる松島の風景は、日本三景と呼ばれるだけのことがあります。芭蕉の時代はそれこそ何日もかけてやって来たのだから、感動もひとしおだったことでしょう。
インプットされている知識と実景の違いにも驚きで、湾を見下ろす高台からの印象ばかり思い描いていましたが、湾に沿って南下しながら走っていくうちに、突然、目線の高さにエメラルドグリーンの入り江が飛び込んでくるのはびっくりです。場所によっては、防波堤にさえぎられているとはいえ、道路の方が水面よりも低くないか?と思わされるポイントもあるのですね。眺めて素晴らしいだけではないところ。うーん、仙台・松島・石巻をBレイドのステージにしたいけれど、ここまで参加者が来るかなあ・・・
松島は牡蠣祭りの真っ最中。もたもたしていると身動きが取れなくなりそうなので、牡蠣を食いたくない人種としてはさっさと脱出して石巻へ・・・行ったら行ったで石ノ森萬画館もコスプレ大会の真っ最中。これもたまらんと混まないうちに飯を食って登米市の中田町へ移動し、石ノ森章太郎ふるさと記念館を見学すると、JAF会員には町が発行した記念館の要覧をもらえるという特典ができていました。
ここには練馬にあったトキワ荘の、ほぼ原寸大自室が再現されていますが展示物は撮影禁止。記念館からほど近い生家に足を運びます。
どこかに似ていたような記憶をもって生家に入ってみて思い出した。家の一階部分の基本構成が、土浦の吾妻庵に非常に似ているのでした。吾妻庵は蕎麦屋なので、厨房部分の配置が異なり比べ物にならないほど大きいものの、土間から遠くに続く座敷の配置は同じなのです。一方、石ノ森さんの生家には、土間の階上に勉強部屋が残されており、昭和10年代後半から20年代にかけて使われていた勉強机が残されています。
9年ぶりに眺める勉強部屋。この机から「二級天使」が生み出されて、『漫画の神様』をも嫉妬させる才能が溢れ出ていった。僕は叔父の存在によって、「サイボーグ009」の連載当初から石ノ森さんの作品を読み始めていますが(もちろんその当時、内容が分かっていたはずはありません)、世界の枠を超えてしまう巨大な作品群の原点は、こんなに小さなスペースだったのだなあと、あらためて感じます。
例年よりも寒いと言えば寒いらしいことしの冬だそうですが、実は作戦室は基地よりも寒くないのです。雪が降ったといえば降っていますが、これも市街地であればたいした積雪にならずに済んでいます。
でも交通量が多いので、路地裏は歩車道ともにつるつるなのでした。地元の女の子は、なんでこんな状態の路面でもヒールの付いたブーツで平気で歩いているんだろうと、感心してます。
火曜日未明に降った雪は、徐々に溶けていますが、これが日本海側ではもう4mほど累積しているというのだから、災害だよねえ。らすかるは約10cmの積雪で凍り付いております。いや、出られないんじゃなくて、市内の仕事が忙しくて出している暇がないのよ。
七曜の星・七曜星と綴り、ヒチョウノホシ、ヒチヨノホシ。シチョウセイ、ヒチョボシなどと呼び習わす地方があると聞き、調べてみると前者が青森、茨城、群馬、静岡、長野、岐阜。後者が山形、岩手、青森、北海道と福岡に飛んでいました。
いやー、ヒチヨノホシってなんとなく好い響きに聞こえるんですが、どの辺の方言なんだろう? うちの近所では、昔からそんな呼び方聞いたことがありません。
北斗七星は「春や夏の星座」に分類されますが、それは天体観測の時間帯に、天空にいるかいないかの問題らしく、秋と冬の夜は、地平線近くで観測しにくいというかららしい。
実際にはそうでもないような気がしますが、我が家が宵っ張りだからなのだろうか? 天空の北斗七星はこの季節でも、ちょくちょく眺めることができます。でもって、左下のほうに輝いているのが北極星。
前回の朝霧高原では、三脚無しのいんちき撮影であったため、手ぶれしているばかりか富士山と組み合わせることにも失敗しました。それが下の写真です。せっかくの月明かりの夜だったのに、なんとも情けない。今回(上の写真)はそれから2週間後。三脚を使っていますが、今度はほぼ真上を見上げるような位置関係となり、富士山と組み合わせること自体不可能でした。
なかなか思うようにはいかないものです。
北斗七星は、本来おおぐま座の一部を構成している尻から尾の部分であり、独立した星座ではないのだそうです。それでもこの判りやすい柄杓の形は、完結した星座と言っても差し支えないかもしれません。言われてみれば、子供たちに「あれがおおぐま座」というふうに、おおぐま座そのものを示す星の配置の説明はしていなかったですねえ。
ことしの北斗七星の写真は、霰と一緒に撮ったのですが、霰が生まれた15年前の今日(表に立っていると、病院の駐車場の舗装が凍り付いて、靴がはりついてしまうほど寒い真夜中でした)にも、北斗七星がくっきりと天空に浮かんでいたのを覚えています。
すれ違ったままの30年
1980年というと、まだ未成年だったようなそうでもないような、もうすっかり何をしていたか覚えていません。世の中の動きはこんなだったようです。そういえば、当時住んでいた東京の行きつけの喫茶店では、しょっちゅう「異邦人」が流れていたような気がするし、テレビの歌番組だとTOKIOの記憶が残っています。
まだウォークマンを持っていなくて(というか、ウォークマンって結局一度も手にしたことがなかった)、車のカセットデッキにはレコードプレーヤーから録音した適当な曲を放り込んで、Ride On Timeを買いに行って歌っている人の素顔をはじめて見てぎょっとした(達郎さん、すいません)のでした。
あーやっぱり、ながらで聴いていたことは聴いていたのだけれど、ビートルズは引っかかってこない。ポール・マッカートニーの成田逮捕で始まり、ジョン・レノンの死去に終わったといっても過言ではないこの年、たぶん熱を入れていたのは伝説巨神イデオン・・・と書くとそっちへ行っちゃうので、ここはビリー・ジョエルと逃げておこう。ビートルズをまったく聴かなかったわけではなく、カーペンターズを聴かなかったわけではなく、エアロスミスだとかビリー・ジョエルに傾倒していた時期。「ダブル・ファンタジー」は買っていなくて、「グラス・ハウス」に聴き入っていたのです。
それじゃこの原稿の意味が無いよ。となってしまうのですが、こればっかりはすれ違ってしまった世代なのですね。そのすれ違いで言うと、さらに1年前の1979年夏。家族で草津へ出かける道々、軽井沢に立ち寄ったことがあります。その日にジョンとその家族が滞在していたかどうかは定かではないですが、もしも彼らが避暑に来ていた時期と一致していたら、唯一のニアミスだったのかも。翌年(80年秋・・・なので、相手はれいんさんじゃねーな)、自分の車でデートにやってきた軽井沢には、ジョンは訪れていないはずです。写真の見晴台は今世紀に入ってから撮影しているものだから、まるっきり的外れか。
一時期通っていた近所のカフェレストランには、初来日のときにビートルズを撮影したというNICONとプレスタグが飾られていたのですが、その元カメラマンがやっていたお店も、いつのまにかなくなってしまった。僕自身はことごとく時間軸にずれを持ったまま、ジョン・レノンがこの世を去ってから30年。そしてむりやり日付だけにこじつけていくとすれば、15年前ならこの日の夜遅く、僕には父親の、れいんさんには母親の扉が開き始めたのでした。
まず金曜日の夜というか、土曜日の午前三時過ぎ。満月に程近い青白い輝きが頭上にあったことから、富士宮の市街地を離れて朝霧高原へ。
しかしふもとっぱらでの撮影は同じアングルになってしまうし、たぶん毛無山の向こうに月が隠れてしまうだろうと、もうちょっと標高を上げます。ふもとっぱらよりも東に回りこんでいるため、大沢崩れが前面に入ってきました。
月明かりだけで撮影。電線が邪魔です。
そしてふもとっぱらの日曜日、午前六時過ぎ。ああっ、寝過ごしてます。いや実際には起きて活動していましたが、空のすべてを藍色で、というシーンは、通りすがりの正義の味方さんとローテックさんに撮影レクチャーしていて、これねというものが撮れていません。
どちらも三脚なしで撮影です。いやその、装備の中に入ってなかったんだよぉ。
ところで、昨年は来るのが一週間早かったえいるさん。今年もでした。