Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

ようやく三十年めに入ります

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これはカタログ写真

まったくもって画竜点睛を欠く話、僕が最初のエスクードを手に入れたのが1989年の6月24日。乗り始めたのがこの年の5月に発売1周年記念として全国400台限定で登場したヘリーハンセン・リミテッドですから、逆立ちしても「エスクードの30年の歴史と自分のエスクード歴」が一致しないのです。

まあどうだっていい話でもありますが、デビューしたエスクードを「なんだこれかっこ悪い!」と思いさえしなければ、この埋められない1年は存在しなかったかもしれません。

納車直後の吊るし状態

ヘリーハンセンの登場記事は、その頃群雄割拠していた四駆雑誌のなかで、今は無くなってしまったオフロードスピリッツが唯一カラー掲載していました。それがいわゆる空色のクルマ。ディーラーで見たカタログモデルの野暮ったい車体色(実はいまその色の幌車にも乗っているわけだが)とは裏腹の、でもこれ自分が乗っているジムニーと同じ色だよ。なにそれ、これだけのことで車のイメージがこんなに変わるのかよ。という驚きを見るのでした。

しかし今考えると、当時の土浦スズキでは割り当てが2台しかないと言われて1台は売れちゃったという状況下とはいえ、銀行の口座を解約して現金払いで買いに行くなどと良くもやったものです。

偶然出会ったもう1台

バブル景気でもあり、馬鹿ですね、「すぐ買うからとっといて」で済んだはずだもの。その後偶然にも、売れちゃったというもう1台と遭遇もするのですが、この頃もっと熱心にエスクードのコミュニティを考えていれば、日本エスクードクラブは本当に実現していたかもしれない(笑)

これが平成という時代の始まりでもありました。で、乗り換えはありましたが未だに僕は初代とその放埓な日々の中に取り残されているのです。え? いーんだよ、好きで残ってんだから。近々勝手に元号の方が変わるだけだい。

 

不自由で自由の日々(笑)

ところでここまででどれだけの日数を過ごしてきたのか勘定してもらったら、本日付で10592日だそうです。数字にしたらしたで、全然ピンとこない日数です。代車の三代目なども加えてのことですが、積算走行距離の総距離は現在のところ約150万キロで、これもまた比較対象が見つからないので意味があるようでなさそう。

ただ、僕は平成元年からのユーザーですが、エスクード自体は昭和の終わりのクルマ。その系譜が初代であるとすれば、次の元号に持って行けるというのは幸福なのだと思います。

 

なんで今なんだっ

だからさー、

このタイミングで壊れるなってのよー(泣)

Team WESTWIN Warriors#121

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今回のTDAでは目立たない存在でしたが、ウエストウインから白いテリオスキッドが出走していました。もちろん初参戦で転倒しレースに絡んでくるような成績も残せていないのですが、島監督が伊達と酔狂で繰り出してきた選手とは思えません。

「取引先の社員でですね、二十代のくせしおって私のことを島ちゃんとかしまっぺとか呼びやがるので、もうお仕置きしてやろうと出しました」

などと監督は冗談交じりに言いますが、この動きは後藤・川添を継ぐ第三世代の育成素材として見出しているという節もあります。

「もう第三世代という以上にジェネレーションギャップで。バケットシートを合わせるから来いといってるのに『今日はネイルサロン行くのでだめですー』とか平気で言うし、四点式シートベルトきつくていやだと言うし」

おいおいおい・・・

しかし考えてみると、四駆とはいえクリアランスの取りにくいテリオスキッドで攻めに出て、ひっくり返すまで走るのは、怖いもの知らずか知らなすぎの勝気か。良い方向に転がったら、なかなかの伸びしろを持っているそうです。

「今回の転倒で、保安部品や四点式の大事さを身に染みて知ったでしょう。しばらく鍛えていきますよ」

てなわけで、単に近所の恒星の光を受けただけの惑星で終わるか、自ら恒星になって輝き始めるか。エミリーさんの戦いが幕を切っています。

 

13年目と40年目

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6月12日、BLUEらすかるの積算走行距離が690000kmに達しました。これで来月あたりにはさらに10000kmを加算できそうな道のりですが、小惑星リュウグウを目指しているはやぶさ2には、先に到達されることも確定です。さすがに27日(はやぶさ2のリュウグウ到達予定日)までにあと10000km走るのは、うちでは不可能だわ。

ここまで12年と9ヶ月。車体自身は22年走り続けていることになります。

ところでこの距離をどこで刻んだかというと、宮城県東松島市の鳴瀬川河口部にあたる、東名運河の野蒜水門。この水門は東日本大震災の津波で破損したものが復元された施設ですが、6月12日は1978年に宮城県沖地震が発生した日でした。この地震は津波というより地震そのものの被害が大きな災害だったそうです。

津波も怖いけれど、真に恐ろしいのは地震なのではないかと今は考えています。

Team WESTWIN Warriors#120

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「変な音がするんで開けてみたら、良い具合の焼け方でしたよ」

後藤選手のエスクードはメカトラブルではなく、燃調とのマッチングの問題のようで、ロムチューンの結果きわめてピーキーなセッティングになったことから、パワーバンドの下側から外れると吹けなくなる。という現象が音になって表れているようです。テスト走行で上まで回している音を聞くと、惚れ惚れするサウンドです。

天井知らずというわけには行きませんが、ノーマルのままのJ20Aながら、10000回転は楽に回っているでしょう。島監督曰く

「これ、今なら日本一速いエスクードになりましたよ。その分、下はスカスカです」

試走から戻ってきた川添君に聞くと、

「ロアは3000までですね。それ以下だと話になりません」

面白いのは、やはり後藤君と川添君とではこのエンジンの乗りこなし方が両極です。後藤君はとにか上まで回してパワーバンドを維持する。川添君は下限ぎりぎりまで落としながらもパワーバンドを外さない。

「もうさー、島さん。ドライバーをニコイチしちゃいたいよね」

と言ったら大爆笑でした。

さて本日はTDAなんですが天候が心配。対戦相手もどんどんエンジン載せ替えや過給器搭載のハイパワー攻勢。雨降りだとそれらの戦闘力が絞られるので、ドラテクがモノを言レースになる。

「僕はドライで戦って勝ちたいですよ」

とは川添君のプライド。しかし今回は彼のエスクードは軽量化対策に留まっています。どんな展開になるか楽しみです。

さて当日、天候は台風の通過にもかかわらず保ち続けての本戦。ギャラリーの誰もが二つの感想を口にしておりました。

「これほどガチンコの対決になるレースは今までなかった」

「ところで後藤君は今回から走り方を変えたのか?」

頂上決戦はハイパワー車が群雄割拠し、中でもFINALビースト社長のジムニー改はコース設定タイムの58秒を2秒縮めてくるうえ、最終コーナーから一つ手前の最もテクニカルなコーナーを瞬時に攻略してしまいます。

後藤選手はその様子を見て、本線直前にタイヤをジムニーとおなじマッドに変更。しかしこれが裏目に出ます。もともと後藤選手のゼロカウンターアタックに特化させたエンジンのハイパワー化は、オールテレーンタイヤとのマッチングも考えてのこと。マッドタイヤではわずかにトラクションがかかるようになり、クルマを振り回す際にタイムが落ちるのです。

一方の川添選手は、意外にもメンタリティーにプレッシャーをかけられたようで、背後から迫ってくるジムニー改のカムに乗った爆音に押され、例のコーナーの攻めどころで2速に落とす際シフトミス。最終ラウンドの結果は2位にとどまりました。

「ビーストの社長は私と同い年という経験値を持っているし、四六時中コースを走り込める環境にいますが、それは言い訳でしかない。30代半ばの彼らもまだ手玉に取られてしまうんですねえ」

島監督は苦笑いするばかりですが、後藤、川添両名の動態視力やドライブセンスが錆びているわけではなく、ハイパワー車ゆえに前走していてスピンする場面もあり、彼らはこれを咄嗟に回避する。この咄嗟の回避というのはただ事ではなく「前走車の前に出たら失格」というルールの中で、鼻先三寸のコントロールを繰り出すのです。

これでだいたいのところは読めるのですが、タイヤの選択、2速に入らなかった瞬間という場面こそが今回の敗因でしょう。実際に川添選手は内装をはがした程度の軽量化しかしておらず、その車両で2位に食い込んでいる。それを上回るのはジムニー改のパワーではなく、相手の駆け引きの卓越さです。後藤選手に至っては前日仕上がった車両を無理に、しかも単にタイヤを変えたがためのコントロール性能を落とす結末。もっと自身のバックヤードを信頼すべきでした。

と、加筆をしたらば島監督から連絡が・・・

「いまさっき点検した後藤君のエスクード、パワーステアリングが途中で故障してたらしく、油圧出なくなってました」

あー・・・ そりゃ振り回せないかー。

楯と剣

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エスクードとは昔のスペインとスペイン語圏の中南米諸国とポルトガルで使用されていた通貨単位です。
古スペイン金貨のイメージとそうした時代のロマンや冒険心をイメージして名付けられました。

 

というメーカー公式ツイッターの解説は、車名の由来において間違ってはいませんが、「通貨単位です」と言い切ってしまうのはいささか乱暴。ましてやこの三行目の記述はもう強引な繋げ方したもんだよと、デビュー当時から感じています。

言葉の由来をもう少し紐解くと、エスクード(ESCUDO)が「楯」あるいは「盾」を意味するスペイン語圏の言葉だということがわかります。そこから通貨単位に流れていくのには、中世ヨーロッパ以前から楯に描かれた紋章との繋がりがあるのではないかと思います。この紋章をエスカッシャンと呼ぶのですがそっちまで紐解き始めると長くなるのでそれは別の機会に譲ります。

要するに、エスクードという単語には、通貨単位と古スペイン金貨以上の深みがあるということです。

そこで、どうせ強引にこじつけるなら、楯があるなら「剣」もあるだろうよ。という着眼なのですが、こちらはスペイン語で表すとエスパーダ(ESPADA)。その昔、といっても50年前から40年前にかけて、その名を冠した自動車を、ランボルギーニが作っておりました。

 

V12気筒4000ccという「いかにも」な、しかし4シーターのグランツーリスモでした。この車のデザインは、マルチェロ・ガンディーニによるものです。

お、っとガンディーニが出てくるわけです(作為的展開)。30周年記念企画webに掲載した「エスクード誕生物語」に記されている通り、ガンディーニはカーデザイナー羨望の的ともいうべき巨匠。でもワゴンRにも乗っているという、割とスズキとはビジネスライクなばかりか、市販はされませんでしたがエスクードのレジントップのキャノピー(プロトタイプ)を手がけました。

奇しくもエスクードはエスパーダが生産中止された10年後に誕生するうえ、エスパーダ自体が日本国内でどれほど現存しているかもわかりませんので、まあそれ以前に「剣と楯」なんて発想で取り扱おうなんて車雑誌もなかったのよ。

カタオカデザインのエスクードとガンディーニ作のエスパーダ。そのシルエットは対極であり、それぞれその名をよく表しているように感じられます。

真に受けてはならないこと

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もうずいぶんとクロスカントリーの真似事走行に出かけていませんが、先達のエスクード乗りは伸びない足まわりをいかにして自在に動かすかを考え、足まわりの構造自体は改編せずにモデファイを繰り返しドラテクを磨いて、難コースに挑んでいました。

ランクルやパジェロの足を括り付けるなどもってのほかで、それやったら何でもありだろうと、彼らのプライドが許さなかったのです。

昔話をしてもせんないので、その難コースのひとつですが、書いてあることは何一つ間違っておりません。しかし、ある意味これを別の視点で真に受けてはなりません。

という時代になっちゃったね。

この看板が今なお健在かどうかは不明です。

知らぬ間の増殖

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トミカにラインナップされたという事実は、四代目エスクードが成し得た快挙といっても言い過ぎではないほど、歴代モデルにとって国産ミニカーの壁は厚く高かったと思います。

皮肉にもそのあと、モデルとなった1600シリーズは淘汰されてしまいましたが、その過渡期には東京モーターショーエディションというバリエーションが加わりました。やー、良かったよかったと思っていたら、なんだこの派手派手なオレンジカラーは・・・?

東京消防庁と書かれていますが、あそこにこんな仕様の指揮車あるのか? リアのクォーターウインドーとバックドアのウインドーをパネル化し潰しているところがそれっぽいなと、一瞬は褒めようとしたんですが、思いっきり塗料で塗ってしまっただけでした。

しかしバリエーションが増えるというのは、よもやモノがだぶつくほど売れていないから? などと余計なことを考えてしまうなあ。

変わったこと 変わらないこと

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これは昨年、「万が一2018年5月のweb公開までに企画イベントができなかったら」という場合に備えて、30周年プレイベントとして開いた時の歴代エスクード。四代目はまだ1600ccをラインナップしていました。スズキ自販茨城さんのご好意で借り受けました。このエスクードはしかも、2WDです。もう一台、四駆の四代目もこのイベントにはお借りしていますが、やはり1600でした。

そしてことし、二階堂裕さんがスズキの広報車を借り受けて持ってきてくれたのは、1400ターボ。ターボ車は昨年8月に我々も試乗車を1日借り出すことができていますが、わずか1年のうちに1600がカタログ落ちしているのを、あらためて実感させられました。しかも、来年までに出てくる新型ジムニーシエラは1500ccが確定したというし。なんともめまぐるしい年回りです。

この話はこれ以上続かないのですが、今回、スーパースージーの取材が来てくれたことで、エスクード仲間に引き合わせることができたのが、右端にいらっしゃるライターの古瀬克也さん。この人が最古のエスクードのクラブ活動を展開した、E.C.J.日本エスクードクラブの発起人です。同クラブは孤軍奮闘に終わっているのですが、30年後の今、同じ流れを持つ(まあ我々のはクラブスタイルではないんだけれど)エスクードファンがいるよということを、伝えたかったのです。

古瀬さんは88年当時、スーパースージーの二代目編集長でした。二階堂さんがインドネシアスズキに出向し、日本ジムニークラブ自体もちょっとした変革期だったそうで、その過渡期に編集長となり、最初に扱った仕事がエスクードデビュー特集号でした。その頃に乗っていたのが、初代1型のコンバーチブル。昨年、うちのぷらすBLUE取材の折も古瀬さんがまとめをしておりますから、ある意味では運命的な出会いを果たすこととなりました。

 

などと感慨にふけっていて恐ろしいことに気がついたよ。

この記念イベントの模様は7月に出るスーパースージーで紹介されるのだけれど、ということは、こちらで受け持っている連載で考えていたのとぶつかっちゃうじゃないのさ。

ああっ、それじゃあ何か別のことを今から書き始めなくちゃならないのかっ

 

 

つくばーどin岩間XXⅨ

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「なんでつくばーどなんだ、ESCLEV じゃないのか?」と、紛らわしいという意見もありますが、メーカーがですよ?「たった二言のツイート」で片づけちゃったんですよ、エスクードの誕生30周年を。

そんなんだったら、僕んとこでやらなくちゃって思うじゃないですか。イベントの私物化、上等ですよ(おいおい)

だけどこれは、やっぱり仲間に支えてもらえなければできないことです。来られなかった人には申し訳ないですが、ここにやって来た人でなければ味わえない五月らしい天候と日差しと賑わいと、うまいもの。みなさんのご協力のおかげで無事に開催できました。ありがとうございます。

で、何かやらないとイベントらしくないよなあと急きょ行ったのが「BEST・ザ・エスクード」コンテストなんですが、便利な時代になりました。参加車両がそろってから写真撮影して麓のコンビニに駆け下り(みぞれと和邇お嬢)、プリントして戻ってきてボードに貼り出す。20周年の頃はできませんでした。投票は参加者全員。これだよね、というエスクードに投票してもらって決定したのは、X‐90の8インチリフトモデルで参加されたZuboraさん。次点に「あの」サイドキックスポーツの和邇さんでした。

一方、M‐レイドについても参加者投票によって、はまたにさん夫妻が外房方面に出かけた渚の風景がぶっちぎりの最優秀賞。かとおもえば、二枠用意した優秀賞には、二枠エントリーしていたかわねこさんの作品がどちらも同点得票で賞をもぎ取っていきました。この展開は予想外だったよ。尚、佳作にはTA01Wさん、青影さん、クロさん、狼駄さんが選ばれております。

 

Zuboraさんの1日

はまたにさんの1日

狼駄さんの1日

コムロさんの1日

madcrowさんの1日

二階堂裕さんの1日

suuuさんの1日

 

ああっ、はまたにさんはともかく、そりゃまあみんな同じカットになるよなあ・・・

 

さほさんの後日

いやいや、そんなすごいところと引き合わされると玉砕ですがな。そも、こちらはクラブじゃなくて野良の集まり部室だから、ゆるゆるとやらせてもらってます。というか、初代は昭和のクルマんなだけれど、いま89年までのエスクードいないんだよね。

 

そこまでは知らんかったよ

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「エスクードのドアミラーはベルトラインの前端、ドアガラスを格納しても邪魔にならない部分を1段落とし、できるだけ低い位置に取り付けました。
 これは基本がオフロードカーであることから、左右の下方視界を確保するための工夫でした。また合わせてこれをデザインの要素として、ボンネットフードとの連続間を持たせることで特徴づけました」

 

エスクード誕生30周年企画webにて、初代エスクードのデザインを担当した片岡祐司・現名古屋芸術大学教授が寄稿してくださった「エスクード誕生物語」の一節です。

このドア側の切り欠きは確かにエスクードの特徴の一つで、フラットなラインに比べれば、多少は視界の確保も可能です。が、このデザインを他社がうかつに真似をすると、後々面倒なことになるのだそうです。

このデザインと設計には、特許がとられているのです。実際に数年後、「やってまった」メーカーが出てしまい、スズキとしては思わぬところから特許使用料で利益を得るという出来事があったそうな。

そういえばデザインとはジャンルが異なりますが、「クルーガー」という商標も、スズキは「エスクード」との関連性を持つネーミングとして商標登録していたため、これを使いたかった他社に売却した逸話もありました。この関連性はしかしエスクードがどこでどう通貨単位から金貨に転ずるのかよくよく考えると無理やりだし、クルーガー金貨というのがあるにせよ、クルーガーとは「賢い」という語意なので、ほんとに使う気あったのかなあとも思ってしまうのですが。