Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

紅のぶ・・・じゃなくてビターラ

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中国現地法人のスズキが販売促進用に作ったものなのか、あちらではこの手の商品市場があるのか知りませんが、重慶で作られているらしい18分の1スケールのビターラ。ドアはおろかエンジンフードから給油口まで開閉する手の込みようで、荷物スペースの床板まで持ち上げられます。出来に関しては言うことは無いのだけれど、梱包は雑。箱に固定するビス止めは乱暴で、頭をなめちゃってました。

しかし今回はコムロさんが大発見ものを持ってきてくれました。またしてもTRIPLE9の製品ですが、2001年式グランドビターラ・・・ええっ、2代目のミニカーが存在したんですか!  エンジンフードにバルジがあるので、ディーゼルエンジン仕様というモデルの選択も不思議です。台座の記述によれば1000個は生産されたことになっているミニカーで、これまで「無い」と言われてきた2代目エスクードの貴重な現存物証となりました。

誓いの印は赤と黒

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怒りのライドル引き抜いたり怒りのキックが岩砕いたり、できません。

「♪赤いハスラーなびかせてー」といった具合に何か考えたかったのですが、よりによって「近い能代市はあ稼得ろ」とか誤変換来るし(いやそれ絶対に打ち間違えてる)

問題はそこじゃない。これは帰ったら血の雨が降るかもしれない。

 

 

 

100キロ先はどんな場所?

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昨日より「M‐レイド」の作品募集を開始しました。

細かい話は固定ページと、そこに記したリンクをご覧いただくとして、それぞれのご自宅から100キロを移動すると、さてどんな景色があるのでしょうか。地図と方位を首っ引きにして何処へ行こうかを考えながら、その場所を選ぶも良し。とりあえず出発して行き当たりばったりにたどり着いたところが目的の景色になるのか。

どちらでも良いでしょう。

どこかへは行けるはずです。ネット地図のロードサイド画像をモニターするのではなく、自らそこへ出かけて行って、そこに何があるのかを眺めてくる。

それが醍醐味です。

 

ロングセラー

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以前、通りすがりの正義の味方さんが仕事用のジムニーにスズキ純正のタイヤカバーを装備して、そのデザインになっているクロサイの保護運動をしているRHINO Clubについて対話をしたことがあります。そのとき僕は「クロサイデザインは70年代から使われていたかもしれない」と告げているのですが、実際にはジムニーが二代目にモデルチェンジした81年に作られたデザインだったようです。それでも今なお同じデザインで新規注文できるのだから、ある意味ジムニー以上のロングセラーということになるでしょう。

うちで三代目エスクードを借り受けたとき、「らいのす」と命名しているのは、RHINO Clubとは無縁ですが三代目のシルエットにクロサイのような厳つさを見出したことにあります。クロサイは種の絶滅に瀕した生き物で、タンザニアのムコマジ国立公園で絶滅予防活動をしているのがRHINO Club。スズキの現地法人が保護区域のフェンス整備、監視員の活動資金や通信機等の提供のほか、グランドビターラ、ビターラ、ジムニー、四輪バギー、オフロードバイクを送り支援しています。

彼らのシンボルマークにもこのデザインが活用され、保護活動とともに現地での飲料水供給、地域住民への文化・教育支援、就労支援などが効果を表しています。彼らのサイトでもグランドビターラや、警備犬運搬用のジムニーが動画で見られますが、そういったクルマが活動できるエリアは限定されます。日本車で言えばランドクルーザーやサファリ、有名なところで言えばランドローバーのような大型で泥濘地も走れるようなトルクの太い四駆か、トラックの方が使い出があります。

三代目グランドビターラまでは、こうした運用に何とか対応できたことでしょうけれど、四代目に移行してしまった現在、もはや太刀打ちできない。ビターラやエスクードはイメージキャラクターとしては退去しなくてはならないのかもしれません。まあ海外では日本国内よりも歴代モデルが長寿で稼働しているし、四代目でも平気でこういう場所で使い倒してしまうだろうとも想像しているのですが、それらも即時修理が可能な部品供給を続けてもらえるかどうかにかかっていくでしょう。

国内投入されているエスクードは、ようやくスペアタイヤをオプション選択できるレベルに戻されたばかりで、それでも車内床下収納のためカバーは必要ない。昔話をしても仕方がありませんけど、「エスクードに貼り付けるなら、いっそのことジムニー用のクロサイより大きいやつがいいんじゃないか?」と、01系のエスクードに乗り出したころに勝手にアレンジていたこの手のマーキングをする人は、年月とともにいなくなっていくんでしょうねえ。

Team WESTWIN Warriors#117

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聞くところによると、広島や福井を主体に開催されていたJXCDが本年は競技自体行われないとのこと。エントリー人気の動向は判りませんが、スポンサー離れに直面しているのかもしれません。笑えない現実はTDAにもふりかかる可能性がありますけど、島雄司社長に尋ねると「まあ私の力の及ぶ限りは続けていきますよ」と元気そうでした。

しかし活気のある九州ダートラ市場にも変化が起きているらしく、ジムニーのワンメークレースや、パジェロJr.のワンメークレースといった、新しいビジネスチャンスが持ち込まれているとか。

当然、ウエストウインにもチームではなく企業レベルでの誘いが入っているそうで、島社長も元気なところとは別に眉間にしわを寄せています。

「それぞれの主催者がビジネスライクにものを考えることは自然の流れですが、すべてにかかわっていったらTDAが些末になります。私自身もそれらの組織に取り込まれれば、チーム監督としてウエストウインを率いるわけにはいかなくなる」

強豪揃いのJXCDが無くなったことで、ウエストウインが格上の排気量勢に挑むという遠征先が、新たな企画においてはことごとく「ワンメークレース」の条件に阻まれてしまうのも悩みの種のようです。遠征自体がチームのモチベーションにつながってもいましたから。また別の視点で見ると、TDAを走りきった。ステップアップしたレースに行きたいという出場者も出てくることでしょう。

「うちとしては、TDAを通じて、1ランクも2ランクも上のステージで戦えるドライバーを育てたい。これは何もウエストウインのチーム内からでなくとも良いのです。そのようなレースの中に、型にとらわれない楽しみを醸成したいんですね」

島社長の理念はそこにあるのですが、イベントが群雄割拠してくることは、TDAそのもののスタイルを固持すると参加者離れが起きないとも限らないし、スポンサー側の選択と集中という懸念も出てきそう。

それにしても、TDAの枠内とはいえあれだけ猛威を振るうエスクードの存在にもかかわらず、ジムニーとかパジェロJr.とか。アフターマーケットありきの企画ビジネスな構図が見え隠れします。エスクードじゃそこまで市場を掘り起こせない。だけど仮にエスクードのワンメークレースなんてやられようものなら、貴重な個体がことごとくぶっ壊れていくので、それはそれで「やめてーっ」と叫んでしまいそうですが。

遺伝情報

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以前は気にとめてもいなかったのですが、ハスラーのリアフェンダーは控えめながらブリスターフェンダーを纏っているんですね。このふくらみのラインは、まさしくエスクード譲りの造形です。

フロント側もブリスターと言っていいラインですが、フェンダー下部側をえぐるようにへこませているデザインの方が目立つので、これは遺伝情報の一部がエスクードから進化したということなのでしょう。

ブリスターフェンダーがエスクードだけの意匠だとは思っていません。その初代エスクードだって、開発した人に言わせればホンダシティの形からヒントを得たということですし、01系ショートって、プジョー・205ターボ16をオフロード調に・・・したんじゃないかと言いかけて、いやそれは、あっちの方がよほどオフロード性能高いわ。

 

DM‐V1など歯が立たない景色

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何年仙台在住しても冬の東北の道は慣れません。こんな時期に笹谷峠を越えて山形に行くなんて絶対にヤです。

・・・やだって言ってんのによーっ

でも仕事なんで山形道を恐る恐る走って山形市内です。

まだ新品だという条件も手伝ってくれていますが、旧式化したとはいえDM‐V1の圧雪路性能は不安なく、凍結路においても安定しています。もちろんFR状態だとリアが滑る。滑るけれど、その挙動が出る状況を察知しやすくて、あーいかんとペダルコントロールする間、踏ん張るのがありがたい。

とはいえ慣れない冬道。攻めの走りはやらないに越したことはないです。

すると霰から下宿先の風景が再び送られてきまして、

「友達のクルマが駐車場で埋まっちゃったんだけれど、クルマってどうやって掘り出せばいいんでしょう?」

で、そのためにその友人のところまでこんな状況のなかを雪中行軍していたらしいのですが・・・まさかフライパンは使ってないだろうな?

三十年の過去を見るか今を見るか

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スーパースージー誌上発行人である二階堂裕さんが随筆する「ジムニーロード」は、幾多のジムニー関連記事を読み飛ばしても(おいおい、この雑誌でそれやったらどこ読むんだよ)必ず拝読するページですが、ここには時々、エスクードに関するコラムも登場します。二階堂さんがスズキ在籍時代にエスクードの開発に携わったことは周知の話なので置いといて、携わったからこそその方向性に柱も芯もあるというのは今も変わらないし、変わってはならないことです。

エスクード30年目の幕開けに繰り出したのは、開発で意識したのが三菱パジェロだったというエピソード。それは聞いたことが無かった。「ジムニー乗りが次にほしくなる四駆」と唱えていらした目標に初代パジェロを据えていたのはちょっと微笑ましいというか、嬉しいところがあります。かくしてジムニー以上パジェロ未満(性能ではなく排気量などの車格のこと)が誕生し、あろうことかそのニッチな市場を一大マーケットに押し上げ、SUV時代の呼び水にしてしまった。

その功罪は、意外に知られていないけれど無視できない歴史でもあります。そしてエスクードもこんな逸話を語れるのは、過去が風化したからともいえるし、エスクードというブランドがなんだかんだと30年続いていることにもポイントがあると思います。ただし二階堂さんは、柱と芯の立場からエスクードが代を重ねるごとに乗用車化しパジェロの轍を踏みつつあると憂えています。氏の立ち位置から言えば生みの親として、4輪駆動車の愛好家として看過しがたい現実を指摘するものでしょう。

氏は「当事者ほど誤りに気付いていない」と唱えるのですが、ここに歴史の流れがあるとも思います。少なくともプラットホームの変わってしまった四代目エスクードは、三代目以上に別物と言わざるを得ませんが、それでも混迷のクロスオーバーSUV世界でエスクードの看板を背負う以上、市場が求める声にエスクードとして応えたということ。以前も書きましたが、市場というフロンティアに挑み続けているブランドでもあるのです。

そこに罪があるかどうかは、見つめるものの視点で異なるはずです。開発者の持論は真摯に受け止めるとしても、愛好家の側は、だからといってそこでエスクードの系譜を断絶させることはしないよ。と言わねばなりません。そのための通過点という意味も、三十周年にはあるのではないかと思っています。

まー肩の力は抜かんとなあ、ですね。

 

ところで

ジムニーの記事なんか云々と書いておりますが、今号、デファレンシャルについての解説記事が組まれています。これは古いエスクードに乗っている側にとっては参考になります。

104号はちょっと多いぞ

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TDAリポートではウエストウインが爆走し、コラム・ジムニーロードではエスクード開発史の「そこ初めて聞くよ」というエピソードが語られ、HANGARの高田社長は「速いESCUDO作ります」などと広告打つし、細々と続くながらもエスクードの連載は52回めを数えたスーパースージー104号は、つまり10年に一度の千載一遇(なんかよくわからん表現)な巡り合わせという構成。その大盤振る舞い(笑)となるのが、巻末近くで突如出る「祝」文字付の4ページ企画。

本年5月がエスクード誕生30年となるため(とリード文に唱っているのにジムニーロードでは4月と書いちゃうんだからもう)、01Rを主役に4輪駆動車としてのエスクードを解説しています。なんだよ要するに雷蔵が圧力かけたんだろうよと言われても構いませんが、周年であろうが圧力であろうが記録としてエスクードの記事を載せていくことに手段は選びません。ですから4ページのうち1ページ分ですが、4代にわたるエスクードの変遷もちゃんと扱ってもらえています。

それにしても、こういうときはやっぱりRなんだなあと思わされるわけです。コンバーチブルというスタイルと4輪駆動車とのマッチングとは、僕の中では必ずしもベストとは考えられない。鉄板の屋根に防護されてなんぼの世界(軍用車=ジープの話)だと感じてきたし、進駐軍が乗るジープなんか見たことない世代だから尚更です。それでも、こういうカタチに憧れの意識があるからってのも間違いないなと納得するし、01Rを持ってたからこそ企画も成立したということでしょう。

 

その頃の鹿屋

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前号では狼駄さんの「吹き替え」で絵づくりを切り抜けた挿絵でしたが、それは東名高速をひた走るシークエンスが夜であったからどうにかなった作戦でした。

これよく見ればわかりますが、霙が時速80キロしか出せなかったことから(手ブレを抑えるためです)実はスピードメータの針はあとから書き換えてます。

さて後編は夕暮れ前の鹿児島県鹿屋市。20年来変化が少なくて、しかし1997年当時に戻ったなあという風景を狼駄さんに選んでもらいましたが、そこに白狼ことエスクードコンバーチブルを走らせなくてはならない。

どなたでも察しがつくと思いますが、あえてそれを・・・というよりそれしか方法ないのよ。と決定した時点で、あ、どうせなんだからわざとチープな絵にしてしまえと開き直っております。

かくして「1997 帰郷 」は昨日発売のスーパースージー104号にて後編、完結です。

が・・・後編は駆け足すぎでした。1200字という制限はやっぱり厳しい。狼駄さんと再々度ディスカッションして、もう少しだけ鹿屋の描写を加えたものを、彼の「白狼伝」に、いずれ掲載したいなと考えています。