Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

グレムリンがいる!

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フロントストラットの付け根修理が済み、意気揚々と走り出した良いものの、連休明けから仙台は次第に天気が下り坂となり、雨が数日降りました。

あちこち出かけているので車体も汚れてきますがフロントグラスは走りながらでもウォッシャー液とワイパーで洗浄できるのだよ。と、コラムレバーを手前に引いたけれどウインドウォッシャーが出ない・・・

ありゃ? 修理に出したとき既にタンクが空になっていたのか?

東北道を移動中だし、カー用品店に撥水液を買に行くより先に給水せねばというわけで、パーキングエリアのコンビニエンスストアで水を購入してエンジンフードを開けたら、ウォッシャータンクにはいつも使っているのとは異なる青い洗浄液が並々と入っていました。

あー、タンクを外して溶接修理の後、ちゃんと補給して組み付けてくれたんだ。しかしモーターは動作しているのになぜ出ない? ホースをたどってみると、まったく通水していません。

ウォッシャータンクは数か所で車体側にボルト止めされているので、これは組み付けのときにホースの一部をタンクの底にでも挟んで閉塞させたのかもと思い、タンクを外してスイッチを入れてみたけれどモーターが空回り。

ぬぬぬぬ・・・あと考えられるのってノズルの目詰まりだけれど、そもそもノズルまで水が行っていないのだからそれとは別の部分を点検しないといけないはず。しかし思いつかない。

なんだろうなーと焦りながら、なにげにリアウインドー用のウォッシャースイッチを押したら、フロントグラスいっぱいに水が噴き出るではありませんか。

あ゛・・・

ってなわけで、再度車外に出て外したタンクのコネクターを左右入れ替えて差し直してみると、元通り。いやはや、これは手引書見ないで組んだらこうなることもあるよなー。板金屋さんのところにいるであろう「計算を間違える小人さん」か「グレムリン」のことを連絡すべきかどうかですが、こっちに連れてきちゃったうえにいなくなっちゃったので、そこはもはやどうにもなりません。

 

 

後期型だけどもっとひどかったよ

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一か月間の休眠を経てBLUEらすかるが復帰しています。フロントストラットのアッパー側取り付け部周辺に発生したクラックを塞ぎ、板金してもらう作業でしたが、ことは言うほど容易いものではなく、足回りの分解撤去やエンジンを降ろすなどの工程を伴いました。さらにクラックを塞ぐだけの作業にとどまらず、ストラットタワーバーやスタビライザーの受け側などにも錆と腐食があり、それらを除去したり腐食で無くなってしまった部位を作り直したりの外科手術だったそうです。

主治医にも板金の職人さんにも苦労をおかけしました。この間、霙が追突されて借りていた車がおしゃかになるわ、その事後処理で手間をかけさせてしまうわ、修理明けと同時にもう一台が車検で入庫するわ、いろいろ世話をかけっぱなしです。

フロント側の心許なさが解決できただけに、リアのショックがブッシュの問題で減衰力を変えてもガタゴトいうのがいよいよ気になってきました。ランチョを新調するか、銘柄の違っているままのタイヤ2本を新調するかが思案のしどころ。

もう一人のランナー

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昨日の赤いコンバーチブル退役については、いつかはその日が来るだろうと、ひとごとならぬ思いがあったのですが、避けられないものは避けられません。

そんなときに追い打ちをかけるように、Maroさんからの連絡があり、彼が32万キロまで走らせてきたTD51Wのエンジン、冷却系故障の度合いが予想以上に大きく、やはり退役となることをうかがいました。

話が遡りますが、うちの先代のとるねーどらすかるが2005年に全損し、1カ月弱のブランクを経て、BLUEらすかるが二番機として走り出した頃、当時のブログやwebをカナダで見てくれていたのが彼。その後帰国して自らエスクードに乗り始めたのです。
彼がらすかる交代劇の何に感銘し、海の向こうで友人知人にそのことを語り継ぎ、帰国の途に就いたかは、当時僕が知る由もありませんでしたが、ある日フジ・オートの渡辺代表が教えてくれました。

  「あなたのエスクードを意識して、うちで扱っていたТD51Wをお求め下さったお客さんがいますよ」

そして実際に、彼から連絡をいただき、交流が始まったのが、ちょうど10年前のことでした。カナダではご両親が、ТD62Wにあたるグランドビターラに乗っていたそうで、Maroさんご自身は帰国後に、93年式ТD01Wに乗り始め、2007年に現在のТD51Wに乗り換え、01Wはやはり帰国したご両親が乗り継いで、2011年にこの01Wが退役することになり、手に入れたのがТD61W。つまりBLUEらすかるの同型車となりました。

親子でエスクード乗り。なんて羨ましいと思いながらも5年ほど前にご両親ともお目にかかって、我が家よりもずっと早く二代にわたるエスクードライフのお話を聞くことができたのは幸運でしたし、なんともはや、僕みたいなへんてこなエスクード乗りが、これほど人様のクルマ選びを左右してしまったことに驚かずにいられません。

なんかもう、すいません。

でも、やっぱり残念でならない。身勝手なことを言えば、そんな気持ちです。本当に避けられない時代が来ているのだと痛感させられます。

海岸ランナー 完結 前編

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会社に入社した年、すでに昭和は終わり平成が始まっていた。

職場は東京と郷里を行き来し、そして再び東京の勤務になって、こちらに家を建て10年と少し過ぎる。僕自身は昭和の生まれだけれど、子供の頃は明治生まれのお年寄りたちに歴史そのものを感じさせられた。こと僕の郷里は戦争で手ひどい仕打ちを受けているだけに、その中を生き抜いてきた人々には皆歴史があると思っていた。

その僕が、まあ僕がそう決めたのではないけれど、平成の終わりを告げるニュースや記事見出しが飛び交う過渡期に、いま暮らしている。おいおい、遂に自分自身が、来年の今頃には三つめの元号を生きるのだぜ。

職場でいろいろと根回しと手回しが気ぜわしいのは、そういった時代の移り変わる過渡期だからなのかもしれない。ただ、そんな生活パターンにすっかり馴染んでしまって、さほどの違和感もない・・・

というのは自分に対する偽り。ずっと、このライフサイクルの中に生じている、凝りのような感情から目をそらしていた。

退勤途上の電車内で、スマートフォンに着信が入る。オークションに出品していた、タイヤが2セットとも落札された連絡だ。アルミホイールに組み付けたままのスタッドレスはほぼ新品、オールテレーンの方も・・・これは走る気はあったのだろうな。いずれ履き替えるつもりで買っていた未使用品だ。

 純正シートに戻し取り外したレカロのコンフォートも、タンクガードも瞬く間に落札者が決まった。まだこの手のパーツに引き合いがあることで驚くわけだが、使ってもらえる先があるならそれでいい。残ったのは白地のキャンバストップだ。これについては思うところがありというより恐る恐る、手紙を出した。メールではない、封書で。受け取ってくれるならば今度の週末、宮城に伺いたいと書いた。すると即座に電話がかかってきて、こっちに来てくれるという。

だから恐ろしい・・・ああいや、ありがたい。受け止め方によってはうざったいと誤解を招くほど面倒見がよい彼は、車を丸ごと引き受けられずに申し訳ないとまで言ってくれた。

もちろん僕もそこまで寄りかかろうとは思っていない。ただ、この春をもって、長年乗り続けてきた車を処分するにあたって、彼には真っ先に伝えなければと決めていた。

それにしても、彼と連絡を取ったあとに出品したオークション品が、彼と会う以前にすべて売れてしまうという激流のような世の中だ。

それもこれも、インターネットの普及に対して移動体通信機器がこの10年で飛躍的な進化を遂げたことが要因だろう。腕時計型テレビ通信機という画期的な装備を持っていたウルトラ警備隊に憧れていた僕が、あのビデオシーバーよりも多機能高性能の端末を日常生活で使いこなす時代なのだ。

その反面、クルマに対する関心事は、世代が若くなるほど薄れていると言われている。ことクロカン四駆というジャンルは90年代前半に爆発的にブームとなり、そして市場は定着したものの、定着のために捨てるものも捨てSUVなどというよくわからないジャンルへ拡散し、今またクロスオーバーなんとかいうワケのわからない領域に飛び込んでいる。

 要はステーションワゴンの洒落たやつへの回帰なのだ。そこには荒れ地をものともしないクロスカントリー性能はコストの上でもじゃまになった。雪道と凍結路をある程度走れれば、四駆としての使命は十分果たす。でも、だ。燃料代やら駐車場代やらも含めた維持費は、若い世代には重荷ではある。僕らだってそうだった。それでも四駆で野山に出かける楽しみがあればこそ、やりくりもできた。今はスマホがあれば部屋にいながらにして世界とつながり何でも見聞できる。

それが仮想現実でも虚構でも、電子化された情報は抵抗なく安価に手に入れられる。それこそ東京や横浜在住だったら、発達した公共交通機関でどこへなりと出かけられるから、次第にマイカーという言葉自体が脳内辞書から削除されていくのは無理もない。

まさかね、僕自身がそうなっていくとは思わなかったさ。

そんなことを逡巡しているうちにプレミアムと冠のついた金曜日は明けてしまい、約束の週末がやってきた。

僕はキャンバストップをたたんだ収納バッグを助手席に載せ、家内に見送られて路地裏から赤いコンバーチブルを走らせる。あと数日。休日の数を数えれば、もう何度もこいつを動かすことはないだろう。

 

 

 

※ 後編は「2018 海岸ランナー」として明日発売のスーパースージー106号に掲載します。

初期型なんてこんなもんなんだよ

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ぷらすBLUEは91年型のコンバーチブル。初代の変遷で言うと2型に相当する、つまり初期型で、エンジンこそ16バルブ化されたマイナーチェンジ版ですが内装は1型と共通(3型までこうだったっけ?)

何が不都合かというと、窓を開けるレギュレーター位置にとって付けたようにパワーウインドーのスイッチユニットがぼこっとはみ出しているため、これがコーナリング時やモーグル走行では右膝あたりにぶつかって痛いのなんのの困らせ設計です。

だから見てくれが悪くとも緩衝材をあてがい、右足が踏ん張るような事態になっても痛いよりはましなのよと、こんな感じで過ごしてきました。4型以降はドアの内張り設計が変更され、こんな必要は無くなっています。

しかし気がつけばこれに乗り出して干支がひとまわりしており、緩衝材も擦り切れてみっともなくなり、それ以前に再びコーナリング時にいててててっとなってしまいました。そんなわけでデッドニング用シートのありえない使用法で対処。

「これなんでくっついてるのかなーと、ずっと不思議だったんですよねー。こんなところに膝なんか当らないし」

と、作業をしながら霙がつぶやくのですが、とーちゃんはそうはいかねーんだよ。

しかしですね、霙は霙でどこをどう走っているのか。右フロントタイヤのショルダー部分が異様な編摩耗ぶりです。まあ車高を上げたせいでキャンパー角が悪さしてもいるんだけど・・・

近いの遠いの言わんでおくれ

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なにしろ主催者の自宅から2キロもないんですから、これほど卑怯な開催地もないわけです。それでいて「都心から100キロもないよ」とか、「エスクードですよ、片道300キロくらいなんだってんです」とか言ってきたんだから、罰当たりもいいところ。

で、そういう場所で、今回も開催します。

 

いやほんとにすいませんっ

固定ページでも追加しておりますが、第10回買い出しトライアルも「これ」を出題として同時開催します。

あ、でもこれはエスクードの誕生三十周年を記念してのイベントです。歴代のエスクードユーザーさん、ぜひ27日の予定をあけてくださいまし。

「じゃあ俺、四代目で参加するよ」 ←二階堂裕さん

それはそれで世にも珍しい組み合わせだなあ・・・

人車一体的にポンコツ

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僕自身のことはこの際ほっとくとして(いいのかそれで)、ぷらすBLUEを久々に長距離運用すると、ぼちぼち圧縮が落ちてきたなと感じます。G16Aのエンジンを23万キロまで引っ張ってきたのは初めてのことで、ましてや既に27年前の車ですから、一回の走行距離が数百キロというのは過酷というものです。

で、ここんとこ基地からいわきまで高速、いわきと仙台間は6号国道でとことことやってたりするのですが、すると今度は僕がばてるという困った循環(笑)

それで連休までの仕事の予定を見たら仙台・いわき往復がやたらと多くて、それ以外で郡山往復、山形の新庄、秋田県の湯沢なんかも入ってます。誰だよこんなに仕事入れたの・・・

とりあえずエンジンオイルを交換、霙への返却前にはATFもPSFもやっといたほうがよさそう。オールテレーンに戻すタイミングをどうしようかと考えてますが、今月はまだ無謀だなあ。

人間の方は温泉にすら浸かりに行けません・・・

 

身内内他人の空似

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そういえばなんかに似てるよね(わざと言ってみる)

メーカー公式ツイッターは「ご存知ですか」とアピールしていますが、イグニスが登場したとき既に「混ぜご飯かロコモコか?」と思ったし、そんなことを営業トークに持ち込まれるのは、デザイナーにとっては「針の簟」でしかないと感じるのです。

でも、たぶんその感覚の方が意固地なのか。なんかどっかで見たような・・・というテイストに、メーカーとしての遺伝性とアイデンティティーを能動的に持ち込んでいる。と解釈しなくちゃいけないのでしょうか。

いや、混ぜご飯もロコモコ丼もけっこう好んで食ったりしますけどね・・・

 

誰も褒めなくても僕は讃える

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松本大洋さんの特集本をようやく手に入れることができました。といっても普段、この人の漫画を読むことは皆無です。じゃあなんで「ようやく」となるほど探していたのかというと、この表紙のキャプションにもあるとおり、単行本化されなかった「点&面」が、第一話のみとはいえ収録されているからなのです。これは90年春ごろからモーニング誌上で10回ほど連載されただけで、なぜ単行本化されていないのかというと、出来が悪すぎて松本さん自身が収録を嫌がったからだとか。

それは編集部に命じられて現地取材に行ったパリ・ダカールラリーを題材にしたもので、このときフランスで出会ったバンドデシネという独特の作画を取り入れた、ドキュメンタリーのようなコメディな作品。この特集本で松本さん自身が「イエスマンで言われたとおりに仕事をし、成果も出ずやさぐれていた」時期の、だけど意外と実験的な作風でもあったのです。本人が封じてますから、後に描かれる幾多の秀作と異なり、この本でも誰も触れず褒めてもくれません(解説だけはある)

それでも僕は「点&面」の止め絵のような、その中にも動きがあり、ラリーレイドという秒刻みで一瞬を争うレースにもかかわらず、そこへ来ちゃったぜと状況を楽しんでしまうのほほんとした登場人物と、その呑気さにほとほと嫌気がさしながら怒り続け走り続け壊れまくるラリーマシン「モリタ号」が毎回面白かったのを記憶に刻んでいたのです。だって、わざわざ現地取材に行って、描いた車がスズキエスクードですよ。誰も褒めなくたって、僕は讃えちゃいますよ。

 

閑話休題。

松本さんは89年に渡仏し、90年1月に帰国しているらしいことが、この本のインタビューで判明しました。

ん???  連載を読んでいた頃は僕もエスクード歴2年目くらいで詳しいことなんか知らなかったけれど・・・

ダカールラリーでエスクードと言ったら、あのアピオの尾上茂さんが第一人者というか、ほとんど9割くらいは尾上さんです。が、尾上さんがあのラリーレイドに初出走したのは97年から。88年にデビューしたエスクードが海外ラリーに持ち込まれたのは89年のオーストラリアン・サファリからだったと、尾上さん自身がESCLEV企画の対談にて語っています。

はてさて、第12回ダカールラリー当時、エスクードが走っていたかどうかは今となっては確かめるすべもないのですが、フランススズキから外国人チームがプライベート参加していたのかもしれません(ただし、少なくとも僕の記憶にはその事実はないのですが)

モリタ号(この名前も熱血なエスクードだからあの俳優さんから持ってきたのかと思ったら、当時の担当編集さんの名前だったらしい)の作画もまた松本さんらしいタッチで恐ろしいほどにデフォルメされていますが、車体の各部にみられる意匠は間違いなくエスクード。うーむ、いまさら新たな謎を掘り下げても無粋なだけなんですが、松本さんは現地取材には出かけていたけれど、作画の際に集めた資料写真などはオーストラリアンサファリのものが混同されたんじゃないかと・・・

でもいいんです。松本さんの秀作名作は他にいくらでもありますが、この作品だけは誰も評価しないから、だからこそ僕が讃えないでどうするよ、なのです。

代走行きます

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BLUEらすかるの修理入庫のため、霙に代車を預けてぷらすBLUEを一時返却してもらい、仙台に持ってきました。修理内容は車体側のクラック溶接(新幹線じゃあるまいし)ですが、何日で戻ってくるか未定。

しかしそうは言ってもぷらすBLUEの車検も5月にあるから、遅くとも連休前には完了してほしいんですが・・・