某銀行の駐車場にて。
停めた隣の車に、置いていかれたワンコが一匹。
こういう状況だと、結構キャンキャンクンクン騒いでるコが多いんだけど。このコはご主人が歩いていった方向を、黙ってじーっと見てました。
私の視線に気づいたのか一瞬こっちを見ましたが、すぐに元見てた方向に向き直っちゃうあたりが健気だわ。
涼しい日だったし屋根の下の駐車スペースだから、まぁいいけど。真夏はやらん方がワンコの為だよねぇ。
“ジュラ”篇を知っているオヂサン世代なら「ほう、そう来ましたか」的な物語です。
と、和邇さんが「魔女の聖域」で述べてからもう5カ月以上。今頃なんだと言われても、ソフトを買えたのが5月27日なんだからしょーがないでしょ。の、宇宙戦艦ヤマト2199~星巡る方舟~は、和邇さんがもう一言「娯楽作品」と言われるように、なんだか「スタートレック」のようなお話でした。
「スタートレック」のような、というのは卑下しているわけではなくて、ヤマトっぽくないヤマトなテイストだと言いたいことと、地球滅亡のカウントダウンが続いているとはいえ、イスカンダルでコスモリバースを受領成功し、ガミラスとも和平友好関係を結べた(ここが2199の魅力のひとつ)後で、そんなことは知らぬとデスラーが最終攻撃を仕掛けてくる直前に物語が置かれているため、「明るいヤマトの雰囲気」が、良い意味で異質な世界を描いているのです。
しかしミッシングリンクを使いこなしながらも、風呂敷を広げたままのヤマトです。この補正補完方式で、次があるのはもう明白でしょう。それはそれで、前作を塗りつぶし塗り替えてくれるならまあいいかです。ただ、刷新していく中で、あのアニメ声な若手女性声優陣の声は何とかならんのかと。いや、もともとアニメなんだけどね。
すずしーっ という解放感と、今年初の「銀河鉄道の夜」(種山高原・献立の少ないレストランの特製ラーメン)を食うという充足感で、うかつにも食う前に写真を撮るのを忘れてしまいました。いや遊んでいたわけではありません。金曜日に宮古、盛岡、花巻と仕事で移動し、土曜日が朝から大船渡で仕事。この移動経路が組めたことで、ようやく種山高原で昼飯というプランが実行できたのです。なんせこの店が、昨年10月末から今月はじめまで冬季休業だったので。
食ったから寝る。とばかりに、レストハウス前とは別のだだっ広い駐車場に移動してしばし昼寝の後、帰り際に眺望の開けたところへ行ってみると、牧草地の土の天地返しはすっかり完了し、一面の緑の絨毯が敷き詰められています(写真じゃ見えない)。牧草地に乗り入れるわけにはいかないので、作業車の転回場所までですが、外気温度計が下がるさがるの19℃。いかん、こんなの実感しちゃったら下山したくなくなると、名残惜しんで水沢に降りたら32℃(うへー)
そんなだったらキャンプ場で一泊してくりゃよかったのでしょうが、明け方は一けた台まで気温が下がりますから、コテージ泊まりでも寒くて寝てられないです(一昨年やったことある)。しかしそろそろテントくらい新調しないと、とだけは思うのでした。
「数字で上がったのはわかったけど、見た感じの変化が知りたかった」
と、最低地上高の記事に対して追加の質問をいただきました。
同じ個体の施工前後の写真を同時期に撮影しておけばよかったと後悔しながら探してみましたが、同じアングルのものってなかなか無いのです。
見つけ出した2005年の買取直後のスタイルが上の写真です。納車前はサイドステップまで付いてましたからもっと低く見えたけど、まあダックスフントかコーギーです。
下の写真が、翌年に足回りを交換した直後の姿。タイプMのホイールなのでタイヤはスタッドレスだから、タイヤ外径はこの時点ではまだ、さほど大きくなっていません。純正規格がいかに低いかがお分かりでしょうか。といっても向きが反対だし角度も異なるので、またしても判別しにくいかもしれませんが、今では見慣れてしまってこれがエスクードの当たり前の車高だと思い込んでしまってます。
いがらしみきおさんといえば、僕の場合すでに「ぼのぼの」で知識が止まってしまったままでしたが、最近は宗教思想的な雑誌に連載を出し、東日本大震災から3年後の物語を描いているとか。その手の雑誌には手は出さないよと、またもやぼのぼのから先に進むことのない僕でしたが、手元に回ってきた一冊の冊子が、まるごといがらしさん執筆の漫画でした。宮城県に本社を置く建設会社が設立している一般社団法人の建設業協会が依頼した、震災直後の記録を基にした物語です。
地震、津波が不意に襲ってきたあの日、混乱と憔悴の中で、メディアのビジュアルに映し出されていたのは救助を展開する消防やレスキュー、そして自衛隊の姿でしたが、彼らがいち早く被災地に入れたのはなぜかと言えば、東北道が専有化され、国道4号や45号の津波堆積物、瓦礫がどかされていたからです。
被災直後にもかかわらず、なぜそれができたのか。誰がそれをやり遂げたのか。
請負業が基本の建設会社はそういった重要な事実をプロパガンダとすることを良しとしなかったため、まさしく知られざる記録となっています。今になってこのような冊子が作られるのは、ようやくそれを話題にしてもいいかなというムードが醸成されたことと、来年以降の復興予算枠がどうなっていくか、不安要素が出てきたからかもしれません。
この冊子は県内の学校や公的な機関、市町村に配られているようですが、それだけではだめではないか? 県境を越えたらニュースは流れていない。むしろよその土地でアピールした方が、記録と記憶は断片であっても伝わるという効果を得られると思います。