松尾芭蕉が「おくのほそ道」を編む旅に出たきっかけは、彼が崇めていた西行の五百回忌にちなんだものと言われています。現代の暦では1869年の5月16日(元禄2年3月27日)、江戸深川の住居を引き払い・・・引き払ってまでという覚悟のもとでもあろうし、長い行程のための資金繰りもあったことでしょうが、ともかく芭蕉は曾良を伴い、北を目指して旅に出ました。
日光、黒羽、那須を経て白河関を越え仙台にやってくるのが約1カ月ちょっとの後。途中の滞在期間を差し引くと、やはり健脚だったのだろうと感じます。いま、僕がその距離を数時間で行き来していることを彼が知ったら、どんな顔をしたことやら。
おくのほそ道は松島から平泉に至り、出発からほぼ2か月後に山形の立石寺に戻ってきて、そこから新庄まわりで出羽三山をめぐり鶴岡、酒田から行程最北の象潟に約1カ月をかけて歩み、日本海に沿って越後、金沢、敦賀を回って4カ月と少しで大垣に至ります。彼は大垣にしばし滞在した後、この年行われていた46回めの内宮式年遷宮を見物するため、伊勢に向けて出立していきます。
まさしく日々旅ニシテ旅ヲ栖トス。いくら東北のあちこちに出向く僕でも、4カ月という自由時間を得られない境遇では、この行程と同じ旅は不可能です。なにより気持ちのゆとりも覚悟もないしなあ。