50年前の今日、そんなサブタイトルでウルトラセブンの第12話が放送され、その約3年後に当時の制作会社である円谷プロダクションが諸々の配慮に基づき、当該話をセブンの放送リストから欠番とする判断を下しました。
で、時々この封印された第12話はそれを解放すべきではないのかという議論や主張が取り沙汰されるのですが、ことしはセブン誕生半世紀の節目ということもあって、メディアの取り上げ方もいつになく能動的でした。
そこに至る経緯やらなんやらはあちこちで語りつくされているのでここに記すのも億劫ですから割愛。欠番にされたと言ってもアンダーグラウンドなところではコピーを重ねた映像が今尚流出しており、欠番にされた理由には納得できないという人々は、おそらく解放運動を連綿と続けているものと思われます。
視聴者やファン、という広い括りの視線を負うならば、ちょっとした苦言がもとで永久欠番とされたことは、彼らの気持ちとしては寝耳に水だろうし蚊帳の外に置かれたことも不愉快なのかもしれないです。でも、封印は言われのない苦言が発端であり作品が持つメッセージは伝え続けるべきだという訴えも理解できるとして、そのような苦言に至る、作品の扱いに疑問を感じた側の問いかけに対して、制作側が受け止めた決断で、この一件はとうの昔に完結しているのではないかと思うのです。
風化させてはいけないとのアピールにしても、欠番とされたからこそ議論が続けられているのであって、わざわざ欠番を解かなくとも、なぜ世に出せないのかというフォーマットの上で、ウルトラセブンという作品に平和への祈りや過ぎた武力の愚かさを解き続けてもらうことの方が大事ではないかと。
欠番とすることを潔しとした制作側の、苦言を呈すに至った親子というより、ピュアに哀しさを感じた子供に対するやさしさ。テレビがそれほどまでにお茶の間と近いところに立っていたとも言えるでしょう。そこを無下にしてまで、解放を迫るものじゃないと思うのです。