「スカイウォーカーの夜明け」という邦題が良くないのかなあと感じました。「Rise」という言葉を、もっと深く掘り下げねばいけなくて、「Bbreaking Dawn」(夜明け)と混同されてはならなかった。けれどそれは日本でのお話で、全米ではどうなんだかわかりません。海のこちらではエピソード9自体が例によって賛否両論で、そりゃ10人が観たら最大10通りの感想があるわなと思えど、不評の声が大きい。
今三部作の主役である彼女が、その出自を明らかにされて「なんだよーやっぱりかよー」と思われ、「縁もゆかりもない彼女がスカイウォーカーを名乗るのか」という声も。そんななか、後ろの座席にいたカップルの男の子が
「最後のシーンが朝日を受けている。あれが新しい時代の到来を意味していて新生スカイウォーカーの夜明けなんだよ」
とガールフレンドに力説しているのがほほえましかった。
いや、君。エピソード4もういっかい観なさい。カメラワークから俳優の顔の向け方まで、4をなぞったあれは夕日なんだよ・・・
それはそれとして、作り手のJ・J・エイブラムスはあくまでも「ジョージ・ルーカスのスター・ウォーズ」を死守しようとした(エピソード7において、ルーカス自身に真新しいものが何もないと言われてるけど)。一方でそれを焼き直しだと(まあそう思いますが)許さないファン層は、「スター・ウォーズ」というブランドを意識している。そんな構図を感じます。エピソード8の時点で、8を制作したライアン・ジョンソンも「これはスター・ウォーズをぶち壊した」と叩かれましたが、最近では「せっかく新境地をこじ開けたのに9がまたしても焼き直しした」とも。
確かに壮大な仕掛けと映像なんだけれど、フォースをめぐる最後の戦いがスーパー戦隊のラスボスのノリでしかないのはのけぞりものです。それでも、ルーカス版とあえて言ってみて、その咀嚼の仕方を「彼の少年時代の夢の冒険譚」とJ・Jが解釈して、背伸びしながら殺伐とも見えたエピソード1から3の世界を再びディズニー的に親子一緒に楽しめるように仕組んだんだと覚悟してのことなら、許してもいいではないかと感じます。
いや、1から3に至るベイダー卿誕生譚が嫌いなわけじゃないです。でもどこか大人っぽかったからね。
しかしこの映画をまだまだ観たいというブランド化希望の人々にも、後世絶対に「カノンだった」と言わしめる日が来るような気がしてなりません。