Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

CUP OF JOE

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英語圏、といってもアメリカでなら通じる言葉だそうで、「CUP OF JOE」というのは一杯のコーヒーを示すスラング。しかし一見目立たない(おい、いきなりなんてこと言うんだ)佇まいながらコーヒーのメニューは豊富で、なんといっても上美味い(僕の好みとして、ですよ)。つくばーど基地からだと30分ほどかかりますが、それくらいなら何の問題も無いじゃありませんか。

昼時は混雑するかなと思ったけれど、隣の弁当屋に来る人の方が多く、この人たちはその足で立ち寄り、コーヒーをテイクアウトしていきます。なるほどそういう手もありか。でも、このケサディーヤとサルサは弁当屋には無いのだよ。

図々しくも取材の協力をお願いしちゃいましたよ。二つ返事で快諾いただけましたよ。掲載誌を届けるまでの間にも通っちゃいますよ。

いったい何やってんだと言えば、スーパースージー113号のための取材なんですけど、駿河湾まで行くのがめんどくさかったのがバレバレ。でもエスクードがヘリーハンセン・リミテッドならば背景は海でなけりゃだめだよねと、わざわざ鹿島灘まで来ていただくという暴挙でした。しかも神栖の海岸とか小名浜の港とか候補を伝えておきながら、その距離すら億劫がっての、基地から最短距離。この居心地よい喫茶店が無かったら袋叩きでしたよ。

振り返れば二十年

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異論を唱える人もいるとは思われますが、スズキエスクードのオーナーたちがオフライン・オンライン双方のコミュニケーションを始めたのは、エスクード自体がデビューしてからけっこう後のことになります。古参の人たちのお話を聞き取り総括すると、97年から98年にかけてが黎明期のようです。あちこちに小さなクラブができて、これがメーリングリストの普及で一気に拡大していきます。

 

僕は98年の後半にオンラインに参加し、翌年の今頃の時期、オフラインミーティングに出かけて行き、エスクード仲間たちと知り合うこととなりました。それ以前にエスクードユーザーの知人は風花さんと、もう一人しかいなかったことと、関わっていた四駆の集まりに同一車種が1台も無かったので、99年の春がひとつの基点になるのです。

このメーリングリストを、後に解体したのも僕です。400を越えていた登録者のデータを抹消したら、オフラインに残ってくれた人々の数は1割、メールでやり取りの可能な人が3割ですから、そこそこ以上に恨まれたと思われます。だけど二十年もするとコミュニケーションは方法もツールも様変わりしており、持続させるだけではどうにもならないものだと痛感させられています。継続は力だという時代は過去のものかもしれません。

ESCLEV はそういう袋小路にも備えてクラブとはせずに「部室」という性格を与えましたが、部室? 空き家じゃんと言われるのは無理もないこと。だって取材も営業?も、イベントやツーリングも、机の上では成り立たないから。←ひどい言い草

そんな経験値の原点は、二十年前のオフラインミーティングです。僕個人の印象は楽しくなかったけれど、あとで自分でやってみて幹事の苦労も良くわかりました。

自分で始めたときには世紀が変わって、二十年経ったら今度は元号が変わる。それだけやっててなにが進歩したかって、なにも成長していないんですが、面白くなけりゃずっと以前にやめちゃってたでしょう。

巷の声は「初代エスクード、もうすっかり見かけなくなった」ということですけども、そうですか居ませんか貴方の近場には。

いやいや、おっさんから若い人まで、まだ元気に走らせているユーザー、沢山いますから!

 

 

まだ書店には並んでませんけど

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9日に発売されるスーパースージー112号にて、「つくばーどin日光大室」で訪問した日光大室高龗神社のリポートが、クロさんの執筆で紹介されています。

開催から早くも2カ月経ってしまいました。この号をはさんでさらに2カ月くらい先には、再び大室におじゃまして天然かき氷の早食い大会が催されることになっていますが、ことしはいつごろ梅雨明けするのかも含めて楽しみです。

その2か月後には113号が出るので、そろそろ原稿を仕上げないといけないのです。ページをめくってもめくってもジムニーな雑誌の中で、エスクードを取り上げていく梁山泊連載も、次号で60回めになります。エスクードに特化した話題なんてそんなに続くのか?

という懸念をよそに次号は今月11日に取材なので自転車操業(笑) しかしこのエスクード、どこかで見たことが・・・ 真相は当日、鉾田に来ればわかる!

 

平成の夢と妄想

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僕が最初のエスクードに乗り始めたのは平成元年の初夏でした。当時突如リリースされた発売一周年記念モデルの、ヘリーハンセン・リミテッドの第一弾。実際に乗ったのはハードトップでしたが、ジムニーを棄ててまでよろめいたのはコンバーチブルの方。

しかし土浦スズキに駆け込んでみたものの「(割り当てが)無い」といきなり玉砕し、これに乗ることは叶いませんでした。

その後1600ノマドGリミテッドを買い足し、ハードトップのゴールドウインを借り出し、カタログモデルのV6ハードトップに至るわけですが、あの頃「屋根を切る」とか「エンジン載せ替える」とか、いろんなことをやった人が居て、それに倣った場合、無敵のエスクードは「V6で2500搭載のコンバーチブル」などと大それたことを考えたものでした。そこに到達する前に、エンジンを手に入れておきながら車の方が潰れちゃったため、真っ当に2500に乗り続けているのです。

現実に直4で2000のコンバーチブルがヨーロッパにはあったことをあとで知るも、理想のエスクードと言ったら結局は1600でライトウエートなコンバーチブルで良かったのだと、紆余曲折しながら行き着くものです。こうして30年、初代ばかり乗り続けてきた平成の時代も、いよいよ移り変わっていきます。そしてエスクード自体は、昭和の終わりに生まれた車。自分の中ではまだまだ現役を続けさせていきたいと思い続けているのです。

 

お、きうさんがエスクード履歴を綴っている

沙汰が来たさ

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こんなことだろうと思ったよ。

こりゃ800億の損失というのは試算であって、そこまで膨らまないのかも。信用失墜はそれどころじゃないのでしょうけど。

あと、何処だったか忘れましたがジムニーは引っかかってるけどシエラがリストに無いてなことを書いてた人が居ますが、何処に目をつけてんだ?(74は64枠に括られてるから)

理不尽というよりもう不条理

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JB64がトミカにラインナップされ、YE21Sがはじき出される。

怒れよ四代目エスクードユーザーたち。

春の退却

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眞野屋からの帰路、蔵王エコーラインはどんなかなと聞いてみたら開通が26日だと。おまけに数日前に山麓でも積雪40センチの雪が降っていたと教えられ、そりゃ単独では太刀打ちできなんと半分以上諦め、でもよせばいいのに行けそうなところまで様子を見に行っちゃうわけです。

BLUEらすかるは既に冬装備を外してしまいましたから、ほんとに無茶はできません。地元の人々が山菜取りに来ている程度の、何処とは書けない山に偵察です。

言わずもがな、東北の林道は4月ではまだ安全には走れません。鎖を張られて立ち入れないところも多くなりました。入っちゃならないところにはそもそも入れないし、解放されたルートでも「何かあったら自己責任」では済まないこともあるのです。

様子見でもありますから、もうさっさと退却の判断です。春の芽吹きは連休中に始まる感じ? 遅い昼飯を食いに山を下ります。

そっちこっちで当たっているけれど

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リコール対象車の対処をどうやって行うのか、まだ決まっていないというんですよ。自販茨城に関しては、来週に沙汰をしますと・・・」

困惑する主治医です。まあ確かに、何をどうするのかよくわからない告知ではありましたが。しかし来週何か言われても、すぐ大型連休では事実上何もできないでしょうに。

といって点検はともかく確認できる自動車検査員というのが足りているのか?

エスクードだけだったら大した数でもないけれど、軽自動車に及んでは自販も手に負えないくらい出荷しているでしょうから、「お早めに最寄りのスズキ販売店へご連絡いただき、修理(無料)をお受けいただきますようお願い申し上げます」というアナウンスがまた仇になりそうで心配。

 

渋カジ

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渋谷casualではなく、渋いカジュアルなツーショットが、バックアップ後のフォルダから出てきまして。

これがいつ頃撮られたものかは僕は知らないんですが、この2台をそれぞれ乗り始めた頃、我々がよく知っている友人たちはまだ10代だったかもしれません。それを今考えると、彼らはカジュアルなだけではない渋さがあるよなあ。

と、褒めちゃえばこの写真使ってもいいよね(無断掲載かよ)

初代エスクードは、大胆にもこのSJ30の後継車種として企画会議が設けられたことは、まあ誰もが知るところです。「次期ジムニー開発」の振り出しはサンマルが登場してからわずか3年後の会議設営ですから、初期のもくろみはエンジンの4サイクル化だとかパワーアップ指向で考えられたのかと想像できますが、サンマルジムニーは思いのほか評価が高く、第1回目の会議で「次期ジムニーなんかまだいらない」と、次期開発自体が袈裟切りにされてしまったのです。

もっともそのおかげでエスクード誕生のきっかけが生まれるわけですから、塞翁が馬。だけどこの状況をよくよく考えてみると、その場に偉い人たちが(GMとのプロジェクトで皆出払っていた)いなかったという偶然にも助けられた、やんちゃでけっこう危ない橋を渡る路線変更だったんじゃないかと思わされます。

乱暴な解釈をすると、足回りの構造こそ新機軸を持つエスクードですが、フレームの構造もエンジンレイアウトも~ただし四輪駆動のセンタースルー方式は新しい設計~ジムニー譲りと考えられなくもありません。そこに花を持たせたのはやはりデザインで、これを踏襲したモデルはその後現れていません。

ジムニーもまた然りで、ホープスターON4WD、初代と比べると、サンマルこと二代目はドラスティックに変化しており、しかしシンプルなラインはその後どうやっても変え難いシルエットを確立しています。そこには質実剛健ながらカジュアルという、良いとこ取りが成功しているのです。

大きく分岐しているようで、エスクードとSJ30には深いところに共通する志が込められていると、この写真をリサイズしながら感じ取るのでした。

31年目の出会い

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B’zといえば1988年結成でしたから、スズキエスクードと同級生の「昭和世代」←なんかここを強調しちまったよ彼等が四代目エスクードのCM曲を手掛けるというのは、何かのご縁でしょうかね。

しかしなんだね、安全に関する「妥協は無い」というコピーは結構なことですが「弱点は無い」って、誤解を招くからやめれと、CF作った会社には言いたい。

まあ映像の方は、よそのメーカーの嘘くさい、というよりやっちゃいかんだろうと目を覆うような奴に比べればずっと品が良いのですけど。