Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

震度6強と小望月

2 Comments »

地震が起きた時間、夜空には月齢14.4の小望月がありました。天体の運行と地震発生の因果関係を直接結び付けることに科学的合理性があるかどうかは知りません。そもそも東日本大震災の夜は月齢だったら6くらいの宵月でした(雪降ってて月なんか見えなかったし)。それでも潮汐力を産み出す月の引力は、海だけでなく陸や海底にも作用することは間違いではない。17から18日にかけての月は大潮をもたらしていましたから、あの年レベルの大事に至らなくて良かったのかも。

津波は、今回は注意報で済みました。ただ、約6m高さの津波に対応するために東北太平洋沿岸に作られた防潮堤は、その巨大構造物の質量によって沈下の見られる地域があります。逆にその手前陸側に再生されている防風林が土台ごと盛り上がっている。沿岸構造物を急速度で整備した折、地下基礎の整備を行う余裕がなく、盛り土の上に防潮堤なり港湾構造物を作り直したことの弊害だと、状況や推論や事実を交えた話を聞いてきました。

千年に一度と吹聴されている大地震が、十年程度のタームでやってきちゃう現実。津波は確かに怖い災害ですが、その前に地震なんだよねえと、常磐道が使えず国道を北上する途上で考え込みました。

ところで、この仕事が何で俺の担当になるんだよ・・・

メバル、50センチ! おらんわそんなの

2 Comments »

湾内では春を告げるメバル釣りが解禁されているはずですが、メタアルブミンを食って巨大化したなんて話は聞きませんし、廃棄物13号が潜んでいるような海面にも思えません。三番背近くの岸壁から眺める景色は、想像と違って「千葉の東京湾風景」しか見えなかった。機動警察パトレイバーの世界とは異なっています。そういえば今日は「柘植行人一味による東京テロ」の日です。先日ベイブリッジのことを書いてますが、爆破から蜂起まで5日間。

テロやらクーデターやらには速度が重要ですが、後藤隊長や松井刑事の捜査の追随速度も恐るべき素早さでした。と、パト2の話はここまで。漁から戻ってきた船の背後に横たわる陸地は、三浦半島にしては変だなーと凝視していたら「あれは袖ケ浦の辺りだ」と見知らぬ老人に教えられました。房総半島の付け根はまったくもってもの凄い湾曲を展開しています。船橋や市川の湾岸は素通りして渋滞回避していたけれど、岸壁まで近寄ると静かなものです。

しかしこの遠望では方角として富士山は見えないのねと仕事に戻ろうとしたら、目の前にうっすらといらっしゃいましたよ。

夕刻までここに粘っていたら、夕暮れ時のシルエットになってもっとはっきりと眺められたのでしょうけど、いつまでも遊んでるわけにもいかないので、いずれまた来てみよう。

 

あしたのおかずをあてて

あしたのおかずをあてて はコメントを受け付けていません

トマトトマトトマトトマト夜更けのなぞなぞ♪

ってことでしょうか? このあと、つい紫の光の帯につられて近寄ってしまいましたよ。

赤い林檎の野獣

赤い林檎の野獣 はコメントを受け付けていません

七歳にして没した白い猫が、何年かしたのちに蘇ったら猫どころか赤い林檎の野獣などと呼ばれてしまって、しかし不屈の意志でロックスターになって渡米すべく修行の道を歩んでいるそうです。なぜ渡米かと言えば、「みんなを喜ばせて力を蓄え、HOLLYWOODの丘に行けば元の姿にもどれるだろう」という助言を受けてのこと。彼?彼女?は、元の飼い主が手掛けていたドラムの技術を取得し、白猫に戻るための冒険の途上にあるとか。

これが何年か前には海外のギタリストコミュニティーサイトにおいて「世界で最も過小評価されているドラマーTOP25」の1位にまで昇り詰めているそうです。誕生から本日で二十歳になるらしいのですが、故郷の青森県黒石市で、白猫に戻った姿を見かけた事例はまだないようです。

 

南房漂流 後編

南房漂流 後編 はコメントを受け付けていません

今さら何を言っているんだと言われそうな話ですが、2006年に町村合併して誕生した南房総市に対して、館山市のみがこの協議から離脱して房総半島の突端において元気なわけです。だから錯覚するのですが、南房総市の行政エリアが内房から外房にまでまたがっていて、「えっ? 白浜とか千倉あたりは外房じゃないのか?境界線なら洲崎灯台あたりから東京湾内が内房じゃないのか?」と思ってしまうのです。しかし白浜も千倉も和田もみんな南房総に合併しちゃったんだわ。

その南房総市の市役所本庁が旧富浦町というところが、なんとも腑に落ちないのです。安房国とか上総国とかって地域名は歴史に埋もれたんだなあと感じていたら、駅名や学校名など様々な残り方はしていました。校舎を拝見したこの学校は安房南高校と呼ばれていました。もとは女学校で、後に統合や共学化をへて、現在は文化財として保存されています。98年前に建てられた校舎ですが、構造もさることながら意匠の細部が大工の腕前の真骨頂という、今じゃ見られない手作りです。

その辺は端折って、ここから野島灯台まで走ると手前の布良海岸あたりで南房総市。でも房総半島に沿いながら内陸部を走るJRは安房鴨川駅まで内房線なのです。これも時々混乱の種です。館山市中心部から洲崎まわりで鴨川まで、70キロ弱ですが、洲崎を過ぎたら外房だと思い込んでいただけに、冨浦から和田浦を過ぎてもずーっと南房総だったのかとちょっと愕然。鴨川(外房)へは君津や保田からショートカットできますが、半島廻るとより遠さを感じることになりました。

ま、そこから基地まで、最短距離候補をいくつか選んでも200キロ弱走らされるんですけどね。

南房漂流 前編

南房漂流 前編 はコメントを受け付けていません

東京と館山(の手前まで)が高速道路でつながって久しいですが、外房はまだまだ遠いです。これまでよく日帰りで仕事に出ていたよなあと自分に感心しつつ、今回は勝浦と鴨川で仕事をして、和田町経由で館山の老舗旅館泊です。宿泊費が二食付きでも安いことから、僕のような出張と長期滞在のビジネスマンで満室ですが、予約のタイミングが良かったためか風呂、トイレ付きの部屋に案内してもらえました。あー、暖房いらねーほど暖かいぜ外房。

宿泊した幸田旅館は創業百十年だそうで、老舗であることは間違いない、普通の和風旅館。改築された今の建物も相当な年期の入りようです。館山なんてリゾート観光の街だから泊ると高いという先入観があったので、選択肢が広がりましたが、向こう一か月予約いっぱいだとか。コロナ禍でなかったら舟形の大浴場でのんびりしたかったけれど、内風呂につかって晩飯に臨みます。翌日は築九十八年という木造の女学校を見学に参ります。

猿の軍団

猿の軍団 はコメントを受け付けていません

夜な夜な徘徊しているわけではありません。仕事に出かける途中です。とあるバイパスの拡幅工事現場で、毎夜、この約200体はあるであろう猿の軍団に立ち塞がられるのです(塞がってないけど)

何がこわいかって、赤、赤、緑の順序で点滅するLED表示灯付きの軍団なんですが、そのパターンが「えい、えい、おー」のリズムでやんの。

騎虎の勢い

2 Comments »

一昨年の大晦日に家内の実母が無くなり、昨年3月には僕の親父が逝去しました。親父の喪はもう少し続きますが、親父だからもういいや、で、本年は年賀の戯言を書かせていただきます。

その昨年、半年にわたってTD61WのV6エンジンをオーバーホールに費やし、下半期はほとんどこれに乗ることがありませんでした。エンジンを預ける際、やれることはすべてやってほしいと依頼し、まさか半年もかかるとは思いもよらず、その後はもう「乗り掛かった舟」の心境で待つこととなりました。英語圏では「船は海に出たら進むか沈むかだぜ」と云うらしいですが、勢いで敢行したオーバーホールは部品ストックの枯渇(メーカーが保管コストを削減するため部品を放出してしまった)に阻まれ、待てど暮らせど車が戻ってこない日々が続くのでした。

この故事、『隋書・独孤皇后伝』によれば「大事すでに然り。騎獣の勢い、必ず下ることを得ず」とのお言葉で、「ここ一番のときですからねー。虎の背なんかに乗って勢いよく走り出ちゃったんだから、振り落とされたら食われて命はありませんよ。そんなわけでもう下りることはできないんで、努力して下さいねっ」とのこと。努力してねと諭されるだけで振り落とされずに済むなら世話ねーよ、です。

かくしてBLUEらすかるは、車検切れ直前に2500ccの6気筒に火が入り、無事に息を吹き返しました。なんだかどこかのヒーローが絶体絶命の淵からパワーアップして蘇るあれみたいです。オーバーホールしただけなので、パワーアップなんかしてませんけど。とはいえ、おそらく現存する同型エスクードのいずれの個体よりも、エンジンと、新調した足回りだけは優位に立っています。フレームと車体の方は、ディーラーに見捨てられたくらいに満身創痍ですが。

さてこの個体、現在820000キロ。騎虎の勢いで走り出したら、もう力尽きるまで往くしかありません。何処へかって、オドメータを一周させることですよねやっぱり。

Feliz aninovo 2022

2 Comments »

まるぼしのきよしこのよる

まるぼしのきよしこのよる はコメントを受け付けていません

先日、コムロさんが昔のエスクードの広告についてつぶやいていたのを切り取ってきています。ちょうど彼らと知り合った頃のお話ですが(彼らというのはコムロ夫妻のこと)、「このビジュアルを再現しよう」と持ちかけ、当時は隣町だった場所に開店した、いわゆるショッピングモールの黎明期な店舗の夜景を背景に撮影を計画したことがあります。残念ながら奥方の仕事が超多忙で、コムロさんの仕事も多忙で(奥方に叱られるから格差付けてます)、これは実現しませんでした。

今やそのショッピングモールが閉店して更地になってしまい、別のキーテナントで再開するのにあと2年ほどかかるらしく、うん10年越しの懸案はお蔵入りです。ただ彼らってそれだけ歳月過ぎていても、こういう構図と夜景背景だと、まだまだ若夫婦に写せるんだけどね(ああっ、叱られるっ)

初代の頃のカタログ写真は、合成ではなく実景で撮ったものが多く、それを模倣したりそれ以上の写真を撮りたくてあちこち走り回っていました。しかも機材が銀塩写真のカメラ。失敗しているかどうか、その場ではわからないリスクを背負ってました。