なんで侵略なんだよって言われちゃいそうですが、一回目がこれだったもので、二回目もこうしちゃったためです。「ウルトラの母がいる!」にしても良かったんですけど、なんかそのうち父が出てきそうですし。
レオを置くときにはアストラと一緒にいさせてあげたいです。須賀川市にお願いしたい。
水平線や上空に雲のない月の出。満月だから大潮とも重なりますが、できれば凪いだ宵の口に巡り合えれば、38万キロの彼方から光の道が届きます。
得てしてこういう時に限ってカメラを持っていなくて、慌ててケータイで撮るしかない(先月の満月)のですが、最近のスマートフォンならもっときれいに撮れるでしょう。今夜あたり月齢が15になるはず。あったかい格好して波打ち際をめざしたくなる天候だとよいのですが・・・
聞くところによると今回の満月は久しぶりのスーパームーンだそうで、耳にした話では地球との距離が35万キロくらいに近づいているとか。写真は日曜日の16時過ぎに厚木の246号から眺めた月の出です。まあ充分満月。満月だからこのあといろんなことが起きましたよ。
恒点観測員340号の後ろ姿と思われるこれは、須賀川市の松明通りに昨年3月ごろ現れたらしいです。
別名ウルトラセブンと呼ばれていますが、実はこの名前が本名なのか、地球人によって付けられた通り名なのか、今まで誰も語ってくれていないのです。1967年に初登場したときには、目撃した地球人から「何ですかあれは? あれは何ですか!」と言われていたのに次の回で、ウルトラ警備隊のアンヌ隊員からもう何の疑いもなく「ウルトラセブン頑張って!」と応援されているので、その間の経緯がうやむやになっています。
まあ恒点観測員340号の名前がどうであるかを語り出したら、「初代のウルトラマン」だって本名じゃなくて科学特捜隊のハヤタ隊員が付けたもの・・・とキリが無くなるのでここまでなんですが、それはともかく、松明通りの彼が恒点観測員340号だとするなら、東北道の阿武隈サービスエリア上り線にいる彼はいったい誰なのか?
そんなことを気にしてどうすんだよな話ですが、松明通りには珍しくゾフィー(これはウルトラマンがそう呼んでいるから間違いなく本名)がいるのだから、松明通りにいる方がウルトラ兄弟のはず。だとすれば、それこそゾフィーに匹敵する立ち位置ということで、彼はセブン上司なのではないかと・・・
気仙沼市にはいくつかの離島があり、その最たるものが大島。約3000人が住む、東北地方にある最大の島で、本土とはわずか300~400mしか離れていませんが、定期便のフェリーでなければ行き来ができないところです。
年間延べ約60万人越え8万台を運ぶ大島汽船は明治39年の創業だそうですが、定期便に乗れるのはあと2年程度。本土と島を結ぶ橋が架けられるためです。
汽船の役目は終わるものの、観光船は残るという話で、気仙沼湾の湾というか入り江というかの風景を海から眺めることは続けられるようです。今、湾ではその大島架橋となる「鶴亀大橋」の組み立てが進んでいて、大きなアーチを観ることができます。が、これも今のうちの風景で、来年の3月には橋の架かる場所に曳航され据え付けられてしまいます。橋と道路はさらに次の年の開通予定だとか。
気仙沼の湾にはさらに、この橋よりも巨大な横断橋がそのあとに姿を現すことになります。三陸沿岸道路のルートが、なぜか気仙沼のあたりだけ海を渡すからです。汽船からの眺めはどんどん移ろい変わっていく。本土側の津波被災地もずいぶん変わりました。今しか見られない風景と思い出かけてみたのですが、小さなフェリーで車を載せるのが予約制だとまでは知らなかったよ。人間だけ海を渡ってきました。
神戸市の鉄人28号も佇み続けて傷みが出たとかで、補修と塗り直しが行われ、従前のくすんだ青から鮮やかな色調へ化粧直しされました。以前のやつもブリキ感・・・失礼、鋼鉄っぽくてスケールにもマッチしていて良かったと思いますが、なんでだろうと思ってみれば、今度の塗装は原作色に近づけたことで漫画っぽく感じてしまうからなのかもしれません。あのくすみっぷり(ウェザリング、とはちょっと違う)は、あれはあれでけっこうリアルな巨大さを表現していたのです。
それにしても、ネットに転載されていたニュースを読んだら「アニメ版に近いブルーグレーから、原作漫画をほうふつさせるコバルトブルーに」とある。アニメ版って・・・あれですか、「鉄人28号FX」に時々登場していた初代。いや、だってさ、最初の鉄人放送していた頃、うちにカラーテレビなかったからさ。
群馬県の遺跡から「東北産の遮光器土偶片」が発掘されたと聞きおよび、一般公開の期間中なんとかこれを見学に行くことができました。出土した土偶片は、東吾妻町の唐堀遺跡に埋もれていたもので、今のところこのような説明がなされています。
参考展示に、青森県亀ヶ岡遺跡から出土した有名な遮光器土偶の原寸大二次元図が置かれていました。
唐堀のものは破損(儀式により破壊された?)した頭部のみの発掘ですが、復元できれば亀ヶ岡なみの全高35センチに匹敵する立派なものです。群馬県内での遮光器土偶出土例は過去に7回あるものの、すべて何らかの方法で「オリジナルの土偶を群馬の地で模倣し制作したもの」だそうで、学芸員さんによれば今回の土偶は
説明板には群馬と東北の距離を400キロと記していましたが、それは直線距離であり、地形の高低差だとか道のりとしての隔たりを考えるとそんなものでは済まないでしょう。学芸員さんは
と述べ、これは私の個人的な印象だけれど、と前置きしながら
群馬、北関東で作られていた土偶(一例として左の写真のハート形土偶)とのデザイン、造形にあまりにも差異がありすぎ、異形ともいうべき遮光器造形の土偶がどう受け止められたのかに興味が尽きない。その受け止め方によって、「こちらの縄文人が持ち帰った」「向こうの縄文人が持ち込んだ」という推理に分かれてくるのではないか? いずれにしてもこの土偶の材質など細部にわたった調査はこれから進められる。
そんな話をしてくれました。なるほどなー、図鑑や博物館でいろいろ同時に見られる現代の我々とは異なる時間軸と空間軸で暮らしていた、ざっくり3000年前のファーストコンタクトだものねえ。
このお話を聞きながら思いました。持ってきたのか持ち帰ったのかのどちらにしても、「その縄文人」にとって、相手側どちらかの縄文集落への旅というのはそうそう何度も繰り返せたものではなく、ひょっとしたらただ一度の邂逅だったということも考えられなくないだろうか。もちろん彼らはそんなことを意にも介さず縄文の道を辿ったのでしょうけれど、来週行くわ、来月くるぞ、という簡単なものではなかったはずですから。
宮沢賢治生誕120年という年回りですが、それを書くなら8月27日の誕生日だったはずでした。忘れてました。そんなわけで9月21日は彼の命日です。詩人、童話作家として国民的作家とまで言われる賢治さん、意外なことに生前に出版されている書籍はたったの2作。詩集の「春と修羅」と、短編集「注文の多い料理店」だけです。それ以外のほとんどの作品は没後に見出された遺作であり草稿でした。
もちろん「やまなし」「グスコーブドリの伝記」「雪渡り」のような、雑誌や新聞に掲載されたものもありますし、盛岡高等農林学校時代の同人誌「アザリア」という発表の機会も経ていた賢治さんですが、童話作家としてみた場合の現役時代に出版された作品は、「注文の多い料理店」に収録された同作を含むたった9編の物語。太く短い人生なのか、か細く儚い生涯だったのかは、後の世の批評にゆだねられているのだと思われます。
「注文の多い料理店」には子供の感性ならスリルとサスペンス的でホラーのような怖さがあります。大人になって読み返すと、危機管理能力のないご都合主義と経済偏重意識の無防備な人間に対して、人知の及ばないモノが「しっぺ返し」を与え、一方で人知の及ばないモノによって「救い出される」ものの、まあもうそこは後の祭りで取り返しがつかない顛末が垣間見えます。
この短編集の序文で、「これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません」と、賢治さんは語っています。天災、人災を問わず、自然や世の中の推移を軽んじているとろくなことはないよと言われているような気がしますが、なんでもかんでも疑ってかかるというのも居心地が悪いと思うのです。
賢治さんが生まれる年に三陸では巨大地震が起こり、亡くなる年にもまた三陸では巨大地震が起こった。そして今年、観測史上初の東北への台風上陸と災害。こんなことは後付けの因果だし、山猫軒で起きる物語と結び付けられる何の理屈も根拠もないのだけれど、気持ちだけがざわざわとさせられるのでした。とりあえずここの珈琲は美味しい。でも、僕は砂糖を入れないからいいけど、おそろしくてシュガーポットの蓋は開けられませんよ。
↑「かわいー」とか言ってこれの蓋を開ける(取る)ってことの視覚的なブラックさには耐えられねー