と思ったら、なんとなく雰囲気が違う。よーく見てみたら、屋根が黒い。ソフトトップモデルでした。
ということは、リアルに変形するということだ。やっぱり今のソフトトップはボタンひとつで開閉しちゃうんでしょうか。その点だけはうちの手動変形にとってうらやましいところ・・・
JIMTOF。行ってまいりました〝お勉強〟に(←嘘だっ by新月)
あんなにひーろい会場で、どうして別々に行った社員と3回も4回も遭遇するかな(笑)(別に行った人はお客さんと一緒だったのね)
一緒に回ってた義妹と「あ、あのメーカーのカタログ袋布製だ」「あ、これ大きさ丁度いい」と袋集めてた私ら。新月サンと義弟に「何処に食いついてんだっ!」とつっこまれました(汗)
小学館お抱えの有名漫画家8名が、それぞれの代表作を読み切りで各誌に掲載し、単行本化し発売しての売り上げを震災復興に寄付するという企画だそうですが、ずいぶん昔にも、あちこちの雑誌で読み切り掲載によるリバイバルというブームがあったのを思い出しました(当時の企画はチャリティではなかった)
聞いた話では「鉄腕バーディーEVOLUTION」のエピローグ編だけ、連載終了後に別の雑誌に読み切り掲載したら、掲載誌が売り切れで手に入らなくなったとかですから、今回も雑誌の売上に貢献するんでしょうねえ。
というわけで企画の妙。究極戦隊コウガマンが、堂々の24ページで登場! なわけではなく、この読み切りは「究極超人あ~る」でありながら、コウガマンで乗り切るというアイデアの勝利。CDのドラマでは何度か展開しているコウガマンも、あ~るの連載中に扱われたのはたった一度でしたから、堂々の主役掲載というのはありそうでなかった意表の突き方です。
しかしそれならばゆうきさん、これは50ページで月刊サンデー枠でやってこその読み切り大作だったのじゃないかと思います。R・デコを出してきたのはポイントが高いけれど、あ~るの周りを固める迷?バイプレイヤーの半分が出ていないじゃないですか。
「あ~るを50ページなんて、間が持つわけねーだろうっ」
とか言われそうですが、それはごもっとも。24ページというのもまあたいしたものではあるのです。が、窮屈そうですよ、出ている彼ら。
作品というのは作り手のエゴの表れであるから、それに沿ったものが出来上がるのは致し方ないこととして。「天使編」「神々との闘い編」に対して、監督と脚本という立場からオマージュしつつ作り手の解釈を見せたかったというのなら、この映画は原点となったと思われる二つのエピソードに対して、何ら王手を打ててはいないということです。
原作者であった石ノ森章太郎さんは、神、という存在の解釈について、人類よりも高次の生命のようなものを考えていたような気がしますが、そこを単なる宇宙人ロジックで済ませたくなかった。
そこで、迫る締切の中で散々考えあぐねた上に昇華しきれなかった。というのが、「サイボーグ009」が未完に至る所以でした。「009 RE:CYBORG」では、その部分にどんなアプローチをするかが関心事でしたが、神、という存在を諸民族のイデオロギーからではなく、生物の本能的な畏怖や恐れに対して脳が描き出す思考的なビジョン。との、008ことピュンマによる解釈・・・を彼のファイルによって朗読した004ことアルベルト・ハインリヒ(今回、彼は饒舌すぎです)の説明までは、納得がいくレベルでした。
それは、解釈の展開によって、ゼロゼロナンバーサイボーグが戦ってきた「悪」の体現ともつながるから。
しかしそのビジョンがなせる技なのか、実際に神が存在するのか、この映画は結果的に「いる」と示唆しながらも、曖昧に流した。そこは承服できません。挙げ句の果てに「思い願えば叶う」という導きでは、困ったときの神頼みでしかないではないか。彼らは天使編の幕切れ前に、神が人類の造物主として存在し、人類の出来栄えに失望したから粛清して作り直すという恫喝に対して、「人類すべてが落伍者ではないはず。自分たちはそれを伝える抵抗者として捨石になる」とまで決意しているのです。
009こと島村ジョーは、その意志のとおり、今回もきちんと抵抗者としての訴えを叫びましたが、いかに最強のサイボーグといえども、できることはそこまででしょう。映画であり、エンターテインメントだとしても、その先を淡々と描かれてしまうと、もう興ざめでしかない。
ついでに言えば、パンフレットや参考書によって設定を紐解いていかなければ、世界観が解説しきれない作品なんていうのは、それ自体が突っ込みどころのオンパレードであり、009という世界観に胡座をかきすぎた作りだとも思います。
最初に、作り手のエゴだと(これはあくまで擁護の意味)書きましたが、果たして本当にそうなのか?
そこかしこに、企画段階で刷り込まれた他の監督候補や企画者たちの記号が見え隠れし、別の作品の作風に縛り付けられたビジュアル、過去の作品から抜け出すことができていない音楽、そういった妥協の塊感も感じるということは、あっちこっちのエゴに巻き込まれて、なんとかかんとか形にしましたといった雰囲気か、はたまたそういう記号にかぶれているだけのプロ感覚の欠落がぬぐい去れない。
いいとこ50点でしょう。でもそれって、民族設定の矛盾からGジュニア、なんてかわいそうな改名をさせられていた005に対して、「そんなこと知らないよ」と言わんばかりに堂々と「ジェロニモ」、と呼ばせた開き直りに対して、です。
実はこの映画、全体の構図は「天使編」でも「神々との闘い編」でもなく、サイボーグ009モノクロ放送時の最終回「平和の戦士は死なず」の焼き直しに等しいのです。だから50点どころか20点もあげられない。
私が・・・。
干しましたさ無理やり。
朝一番では干せないから(夜露でベランダが濡れてる)お昼に数時間。リビングに広げて掃除機かけないとな。やっぱりファンヒーター点けても夏用の敷物じゃ床から寒いのよ。
もっと早くに点けなさいよ気が利かないわねっ!
と言わんばかりの場所に・・・
点火したときに温風が出てるかちゃんと確認してましたよ。猫のオツムも侮れないわ(笑)
でも数分後には風の当たらない場所に移動してた・・・
寒いのよ、寒いんだってば。
で、ふうが陣取っているのは新月サンの席。
優しいおとーちゃんは無理にどかさない(笑)
私?猫をどかして座りますわよ。邪魔だもーん。
さあ11月です。今月は「つくばーどin朝霧高原Ⅴ」の開催です。24日土曜日10時頃から、静岡県の富士山麓、ふもとっぱらにて開く予定です。基本はデイキャンプですから、後片付けも含めて日暮れくらいまでやってるつもりですが、帰るのがめんどくさいよという人のためには、そのまま現地の合宿所で二次会もやります。
で、なにをやるのかというと、まあこの地のロケーションを活かしきれていないのでイメージが希薄です。それでも、エスクードという車をごそっと並べて、記念写真を撮ろうとなると、実にふさわしい野原なのです。
区画線の切られた駐車場に整列させるなんていうのは、よそのミーティングでやってもらえばいいから、ふもとっぱらでは、あっち向けたりこっち向いたり、雑然と放牧させるように、歴代沢山のエスクードに集まってもらおうと、富士山寄りの牧草地を借り切りました。これは、僕が当番でやっている岩間なんかじゃできない開放感があります。
もっとも、天候が悪かったら泣くしかないというリスクもはらんでいます。そのときはそのときで、土砂降りでもなければですが、まずはうちの霙のはいぱーてるてる結界三段返しで防御策を講じ、いざというときにはコムロさんの空間弯曲能力で裏の裏の裏技を繰り出すまでです。勢揃いの撮影は、午後1時頃に行います(雑然と並べるのにも、けっこう時間がかかるのよ)
いずれそのうち、いつかは誰かがもっと大きなものを実現させることでしょうけど、今のところ、エスクードユーザーが一堂に会して壮観な眺めを創出できるのは、つくばーどのイベントだけです。こう書くのは不遜すぎるのでどうかと思いますが、ここだけと言ったって、ユーザーさんの協力がなければ不可能な話です。
だから、つくばーどはイベントといってもクラブミーティングではありません。エスクードに乗っている人ならば、どなたでもおいでくださってかまわない。エスクードに興味のある方もまた然り、OBも同様です。
ぜひ、遊びに来てください。コンタクトは幹事のSIDEKICKさんでも、雑用の僕でも承っております。