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  ~懲りない傾向~

大河の澱み

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作品というのは作り手のエゴの表れであるから、それに沿ったものが出来上がるのは致し方ないこととして。「天使編」「神々との闘い編」に対して、監督と脚本という立場からオマージュしつつ作り手の解釈を見せたかったというのなら、この映画は原点となったと思われる二つのエピソードに対して、何ら王手を打ててはいないということです。

原作者であった石ノ森章太郎さんは、神、という存在の解釈について、人類よりも高次の生命のようなものを考えていたような気がしますが、そこを単なる宇宙人ロジックで済ませたくなかった。

そこで、迫る締切の中で散々考えあぐねた上に昇華しきれなかった。というのが、「サイボーグ009」が未完に至る所以でした。「009 RE:CYBORG」では、その部分にどんなアプローチをするかが関心事でしたが、神、という存在を諸民族のイデオロギーからではなく、生物の本能的な畏怖や恐れに対して脳が描き出す思考的なビジョン。との、008ことピュンマによる解釈・・・を彼のファイルによって朗読した004ことアルベルト・ハインリヒ(今回、彼は饒舌すぎです)の説明までは、納得がいくレベルでした。

それは、解釈の展開によって、ゼロゼロナンバーサイボーグが戦ってきた「悪」の体現ともつながるから。

しかしそのビジョンがなせる技なのか、実際に神が存在するのか、この映画は結果的に「いる」と示唆しながらも、曖昧に流した。そこは承服できません。挙げ句の果てに「思い願えば叶う」という導きでは、困ったときの神頼みでしかないではないか。彼らは天使編の幕切れ前に、神が人類の造物主として存在し、人類の出来栄えに失望したから粛清して作り直すという恫喝に対して、「人類すべてが落伍者ではないはず。自分たちはそれを伝える抵抗者として捨石になる」とまで決意しているのです。

009こと島村ジョーは、その意志のとおり、今回もきちんと抵抗者としての訴えを叫びましたが、いかに最強のサイボーグといえども、できることはそこまででしょう。映画であり、エンターテインメントだとしても、その先を淡々と描かれてしまうと、もう興ざめでしかない。

ついでに言えば、パンフレットや参考書によって設定を紐解いていかなければ、世界観が解説しきれない作品なんていうのは、それ自体が突っ込みどころのオンパレードであり、009という世界観に胡座をかきすぎた作りだとも思います。

最初に、作り手のエゴだと(これはあくまで擁護の意味)書きましたが、果たして本当にそうなのか?

そこかしこに、企画段階で刷り込まれた他の監督候補や企画者たちの記号が見え隠れし、別の作品の作風に縛り付けられたビジュアル、過去の作品から抜け出すことができていない音楽、そういった妥協の塊感も感じるということは、あっちこっちのエゴに巻き込まれて、なんとかかんとか形にしましたといった雰囲気か、はたまたそういう記号にかぶれているだけのプロ感覚の欠落がぬぐい去れない。

いいとこ50点でしょう。でもそれって、民族設定の矛盾からGジュニア、なんてかわいそうな改名をさせられていた005に対して、「そんなこと知らないよ」と言わんばかりに堂々と「ジェロニモ」、と呼ばせた開き直りに対して、です。

実はこの映画、全体の構図は「天使編」でも「神々との闘い編」でもなく、サイボーグ009モノクロ放送時の最終回「平和の戦士は死なず」の焼き直しに等しいのです。だから50点どころか20点もあげられない。