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  ~懲りない傾向~

レイトショーの帰り道

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風立ちぬ戦争を知る世代がどんどん高齢化して、その事実を伝えられる「すべ」が限られるようになった現代において、それを何かの形で残そうという人々の努力は、大事なことなのだと感じます。宮崎駿さんも、齢72を過ぎており、

「ポニョから5年かかって風立ちぬです。これ作ったらもう次は無いよ」

と、文藝春秋8月号の対談で語っている(終盤、次のために頑張る旨の発言もありますが)

幼少時に世界大戦を経験した宮崎さんは、作風はリベラルながらも戦争については大の嫌いな思考の人。しかしご存知のように機械が好きで乗り物が好きで、戦闘機を含むあらゆる飛行機が大好きであるという矛盾を内包することで知られています。だから、零式艦上戦闘機に至る単座戦闘機を開発した史実上の人物である堀越二郎氏を手掛ける際、模型雑誌ではそのキャラクターを豚として描き、一線を引いていました。よって、同作品(今作・風立ちぬ、の原点そのもの)に映像化のオファーが立った時は固辞されたとか。説得の末に堀辰夫氏の世界観をごちゃまぜにするというからくりを交えて、今作のプロットが成立しました。

つまり戦争は嫌いだが戦闘機は好きであり、美しい飛行機と言えば零式。しかしあまたの堀越二郎論には納得がいかないから、自分としてはこういうことじゃないのか?と考えた。という物語を組み立て、災害や富国強兵に翻弄されながらも堀越や堀が生きた時代を通して、戦争を鏡写しにしようと試みたのかと、そんな感想を抱きました。

祖父母や親父の戦争体験を効かされた記憶と照合すれば、堀越や菜穂子は、悲恋の道行きではあっても恵まれた環境下にいます。そこは、それ以上突っ込んでしまうなら高畑勲さんのやった作品にならざるを得ないし、そもそも宮崎さんはそこにスポットを当てるつもりは無かったから、照れ隠しで作ったという「紅の豚」をやりたいけれど、日本の戦時であれはできない。ならば堀辰夫の世界観を用いて(このへんはすべて想像です)としながら、戦争に翻弄されるけれど、自ら目指した道を地に足をつけて進む男を描こうとしたのだと感じます。

ちょっと尺が長かったかなという気もしますが、飛行機は好きだが戦争は嫌いなのだ、という作り方には、なるほどそうするのかと思わされ、それほどに打ち込んだものだったにもかかわらず、堀越の仕事は国を滅ぼしたとまで背中にのしかかる言葉まで用意してくる。その一言を堀越に告げた、時空を超えた堀越の友人ジャン・カプローニ伯爵は、堀越の過ごした10年をどのように評価したのか。それは映像を見ていただくとして、僕は伯爵のつぶやいた「あれが君のゼロか」のすぐあとのシーンだけが嫌いです。

「なんでああいうふうにしたんだろう?」

なんてことをつぶやきながら、レイトショーの帰り道。これにつきあってくれた霙が言うわけです。

「お父さんはきっと『そんなの飛行機雲描くだけでいいじゃん』と思ったんだろうけど、それじゃ主題歌タイアップべたべただもん」

この一言で、僕はこの映画を支持することにしたのです。

なぜって、「千尋」のときには冒頭のクモ爺が出てきたところで怖さに耐えられなくなって大泣きしてリタイアとなった彼女が、こんなこと言って対話につきあってくれるんですから。

同業の方々はパンツを脱いだの脱がないのと言いあっているそうですが、それそこそれは同業者による宮崎感ですわな。それぞれに得意技かましてくればいいと思うので、その話には興味はありません。