わざわざ湯たんぽと座卓の脚の間に陣取らなくても・・・
ふぅが寝てた所にちぃが後から行ったんだけど。
なんだかんだ言っても仲良しな二匹です。
わざわざ湯たんぽと座卓の脚の間に陣取らなくても・・・
ふぅが寝てた所にちぃが後から行ったんだけど。
なんだかんだ言っても仲良しな二匹です。
火曜日の夜のクローズアップ現代(NHK)にて、日本語のポエム化を扱った番組が放送され、それを分析しつつ警鐘を鳴らすのか批判をするのかまでは良くわからない寸止めな議論が展開されていました。
地方自治体が創設した「いかにも抒情的で詩編のような条例文面」や、居酒屋で繰り広げられる社員啓発に用いられる「詩的な啓発コード」に「居酒屋甲子園とやらで叫ばれるやしさくも美しい言葉の情熱的なパフォーマンス」などなど。人々が心や意志を通わせる最も身近なツールである『言葉』が、美しさややさしさをオブラートにして、その現場で起きている事実を見えにくくしているのではないかという議論でした。
僕の地元でも地産の商品を買ってねという趣旨の条例が制定されたそうですが、これが例えばある自治体の条例文が示すように、商品を販売展開するバックボーンを築くために「膝を割って心を開いて酒を酌み交わす云々」とのたまわれると、馬鹿じゃないの?と思わされるわけですが、居酒屋さんや介護士さんといった職業の舞台で繰り広げられている「心の叫びを吐露する」ようなシーンは、ある種どこかの宗教団体のようでもあり、「店員の流出や売り上げ減に歯止めをかけつつ、職場における士気を高める」ツールとして使われているそれらの言葉は、やさしいようで重い鎖をからめているようにしか感じられませんでした。
議論に出ていた学者や解説者曰く、言葉や文章の基本構造である5W1Hという文法と伝達方法の学習が失われ、短絡的に感動や衝動を引き起こそうとする形で言葉が使われ出した。そこで起きている職場環境の劣悪さや不都合不具合を美しい言葉によって包み隠そうとする傾向がある。という分析です。ただこの手の番組は、売った喧嘩に対して「だからこうすべきだと我々はアナウンスする」というところまでは突っ込まないのがずるいと言えばずるい。
確かに番組内で切り取られ放送されていたシーンを観ていると、奇異奇怪にも受け取れるパフォーマンスのなかの、美しくやさしい言葉には辟易しますが、やっている方はきっと必至で本気なのではないかと思わされる。その本気でその気になってしまった世界に、何を告げても聞こえない(だからこそ危険で゜恐ろしい)ではないかと。そしてこのある意味ひとつの文化かもしれない言葉のやりとりが、永遠に続くとも思えない「流行り廃りの流れの中にあるかもしれない」、先々の社会というものも想像できる。そのとき、ここで飛び交っていた言葉には本当にやさしさや思いやりがあったのかどうかと、何年か先のクローズアップ現代が検証する日が来るんだろうなあと考えさせられました。
このとき僕は事務所で、自分で書き終えた原稿の校正をやっていたのですが、いやもうバリバリの5W1Hですんで、無味乾燥以外の何物でもありませんです。ただひとつ、どこの居酒屋さんか知りませんが店長さんに言いたい。毎月の給料袋の裏面に自筆でしたためる評価と励ましのメッセージは、部下と言えども相手に対して無礼であります。便箋の一冊や二冊、自腹で買い求めてそこに書いてあげるべきだね。やさしさや思いやりと、コスト縮減を同列にするものじゃないと言いたい。