小学生の何年次だったか失念していますが、学研から出版されていた「科学」と「学習」という月刊誌を、親にせがんで購読させてもらっていました。「科学」は文字通り様々なサイエンスの知識をもたらし、「学習」では沢山の物語を読み漁ることができて、そしてもっぱら「科学」についてくる毎号の付録が楽しみでした。
いつだったのか失念しているのは、その付録に、捕鯨基地のジオラマ作成セットがついてきたことです。
70年代には捕鯨禁止の勧告が始まっていたそうですが、そんなことはつゆ知らず、学校給食の献立に頻繁に出ていたのが鯨肉の串カツ。これはクラス内で好き嫌いの分かれる食材でしたが僕は好物でした。
そこへきて、捕鯨基地を段ボールのジオラマベースに紙粘土と紙細工とブラキットで作るという付録。ベースの線に沿って入江の港町の起伏を粘土で盛り付け、桟橋や建築物を紙細工で置いて行き、海側の好きなところにブラキットの捕鯨船を配置するというものでした。
実はその頃、僕は自分の描く絵画を馬鹿にされていて、それがなぜかというと「お前の描く船って沈んでるじゃん」と、クラスメートは言うわけです。画力の足りなかった僕は、画用紙の下から8割くらいを海として描き、残り2割が水平線から空という構図で、船舶を8割の海の方に配置していたのです。
しかしタンカーにせよ客船にせよ戦艦にせよ桟橋からか、あるいは沿岸からしか見たことが無いので甲板の様子がわからない。だから知っているアングルでしか描けないのに、船だけ真横から、絵の構図は俯瞰でやっていた。
そりゃー「海中に沈没」してるようにしか見えませんわな。
ところがこのジオラマを作ったことで、僕自身には捕鯨船ならば三次元の構造が理解でき、クラスメートには「お前の絵、そういうイメージだったんか」と理解してもらえるきっかけになりました。その後の僕の絵は、同じ構図でも「沈まず海上を航行している」俯瞰図になっていくのです。
さてその捕鯨基地の町は、ジオラマはあくまで架空の漁港だったのですが、先日、牡鹿半島の突端まで仕事で出ることとなり、鮎川浜の津波被災地にまだ健在で保管されている捕鯨船「第16利丸」と初めて対面することができました。
この船は、日本における高速捕鯨船の1番艦として建造されたそうで、昭和33年から62年まで就航・操業していた大型船です。牡鹿半島には明治時代に、山口県から捕鯨関係者がやってきて一大基地を作り上げていったとか。
鮎川浜はその後の国際的な捕鯨禁止政策によって、往時の姿はなく、また震災の追い打ちであまりにも静かな町となっていますが、かつて解説されていたおじかホエールランドなどの被災施設が再建されることになり、来年から再来年にかけて復旧するそうです。第16利丸があのブラキットのモデルだったかどうかも定かではありませんが、今回はその実寸を知る機会となりました。