霰は「日に焼けるぅっ」と泣き笑いですが、こちらは普段右腕しか焼けないので助手席にいる特権を利用して袖を捲りまくりです。
旧盆の最中、雨天気もはさみましたが、15日は朝から良い天気だったので、新盆参りの訪問行脚を何軒か受け持ち。ぷらすBLUEは小回りが利くので、田舎のどんなに狭い集落でも楽ちんなのです。
が、ふつうそういう時に幌はずして出かけねーよなあ。
来年の話とはいえ用意できるうちにしておかないと絶対に出遅れるのがうちの踏みがちな轍なので、霰の振袖を調達しました。はい、成人式の晴れ着です。
といってもまだ振袖と帯が決まっただけなんで、小物類をあれこれと揃えなくてはなりません。こういうのは車を買う時のオプション選択みたいなもんです。が、車の場合は予算と対比して切り捨てられるものもありますが、こちらはそうもいかない。
おまけに父親側の経験値は七五三の頃のそれしかありませんから、母親自身の経験値に頼らざるを得ません。
するとどうなるかというと、あれもいいけどこれも悪くない。それはどんなのかと、目移りするからなかなか決まりません。
ま、それが楽しいんだろうけどさ。
半世紀が経って三たび「サンダーバード」と邂逅する日がやってこようとは。
などと感慨に浸っていたら、いつの間にか先行放送開始になってしまいました。本日と明日の夕方より、第一話と第二話がオンエア。放送局が50年前と同じで、しかも地上波だというのは非常に好ましいことです。家族の録画予約と被っても、てか被ってるんですが、それなら仙台で録画しておけるから。
メカニックプロップを実物かCGかで比較したら、オリジナルの50年前に軍配を上げてしまいますし、白組が作ったレスキューフォースのCGプロップの方がリアルに思えますが、超人巨人と光線わざに頼らないメカニック番組を堪能できるのだから、見る側もつい贔屓目にハードルを下げてます。その点、酷評だったという2004年版の映画作品は、脚本を低年齢層向けにしただけのことで、映像としては優れていたと思います。まあ低年齢層で何が悪いのよ、とも言えるのですよね。
TB‐Sなる新規機体を河森正治さんが手がけたということが、今作のひとつの話題。懐かしのSR71風のデザインは、彼や僕らの世代にとっては一種羨望のシルエットと言えるのですが、何と言っても今回、2足歩行変形しないところがいい(笑)。その代りにコクピットが切り離されてオートバイとして活用できるそうですが、操縦席が切り離されてオートバイになるというアイデアは、UFO戦士ダイアポロンのアポロンバイダーを思い出させます。しかしこういうデザインや日本的ギミックがあの世界で浮かなければいいのだけれど。
2005年8月14日。とるねーどらすかること先代のエスクードTA11Wが福島県いわき市で43万キロに達しました。乗り出し10年を2か月後に控えた真夏の早朝のことです。旧盆休みの渋滞を避けて、とんぼ返りの行程でした。当時、これだけ走っても伝説のノマドにまだ15万キロも届いていない葛藤と、よくぞここまで来られたものという実感とが入り混じった気分でしたが、正直なところ、こんなことができるのは生涯一度きりだよなと思っていたのです。
この年の春、一足先にコムロさんの二代前のエスクードノマドTD11Wが退役し、翌年の春にはたけさんのエスクードTD51Wが現役を去りました。機能と架装を両立させるコムロさんと、見た目はノーマルで悪路走破性能を引き上げるたけさん。そしてショートホイールベース至上主義の、ロングボディーのエスクードには否定的だった僕(とか言いながら-僕はテンロクノマドも使っていたのですが)。彼ら以外にも沢山の個性的なユーザーが思い思いの考え方で、二つと同じ方向性のないエスクードがぞろぞろと集まっていました。
それぞれのユーザーについて振り返るのは別の機会に譲り、自分のことに絞って記録を見ると、同じ年の2月に40万キロを刻んでいるから、この頃すでに月単位で5000キロという馬鹿みたいな運用が行われています。今だから言えることですが、ノーマルシートでこの走りは、重量級の自分にとっては過酷な条件です。至上主義であるはずのショートホイールベースも、マラソンクラスを走るのには諸刃の剣と言っていいでしょう。そういうネガティブ要素を棚上げして、夢の途上にいた夏でした。
実は15年前の夏、いや1999年の夏だったか。僕はほんの数日間だけ、エスクードコンバーチブルに乗っていました。え? そんな経歴があって、なぜつくばーど採用歴代エスクード史に組み込まれていないのだ?(そんなマニアックなこと言う人いないよ)ということになるのですけど、そのコンバーチブルは狼駄さんのTA01Rだったからです。彼が夏帰省する際、「こいつを長期間放置するのは初めてなので、車上荒らしが心配なんです」と僕に預けてくれた、貴重な体験でした。
それより遡ることさらに11年(ここは元号で書くけど、昭和63年だよ)、そこがエスクードコンバーチブルとのファーストコンタクトで、その個体は東京の神保町に近い辻沿いにあったカレーハウスの店員の女性が乗っていた、やはり白い01R。その車体色に対して黒い幌の色は野暮だなあと思いながらも、エスクード自体をかっこ悪いと思っていた僕に、あれ? でもこの車、幌を取ったら全然シルエットが違ってしまうんだ。と、少しだけ興味を引くことになったのです。
「屋根ですか? 開けたらかっこいいと思うけど、排気ガスとか埃だとかが入り込むのでまったく開けたことありません。あれを買うならハードトップの方が良いですよ」
カレーハウスのお姉さんの感想に、そりゃそういうもんだろうなと思いながら、その頃まだJA71に執心していた自分にとって、街角の店舗脇に停めてあるクローズドコンバーチブルの車体は、不思議に何かを訴えてくるものがあったのです。
翌年、エスクードが誕生1周年を迎え、記念限定車としてヘリーハンセン・リミテッドが登場し、後頭部をぶん殴られたような「なにこれ全然違うじゃねーか!」という衝撃的なかっこよさにやられた話は、もうあちこちで語りつくしました。
しかし、全国限定400台だったこのエスクードは、欲しいって買えるほど甘くはなく、この頃の地元のメインディーラーであった土浦スズキ曰く「うちにコンバーチブルの割り当ては無くて、ハードトップが2台だけ。片方はもう売れました」とつれない返事。かくして残った1台を巡っていくつかの引き合いと攻防を展開する羽目になり、コンバーチブルという選択肢も関心も、どうでもよくなっていったのです。
続きに関心のある方がいたら書きます。コメントが入ったら続行決定。
汎用性が高いとはいえ、やっぱりスポーツタオルと風呂敷の併用は危険です。獅子舞と呼ばれているうちはまだ華かもしれません。
そういえば、ウエストウインの島監督が苦笑してましたが、
いやまあ、エスクードつながりの世界が狭いですから。車種が違ったらしょーがねーんですよ。しかし確かに、島さんと狼駄さんの付き合いもまた15年を遡りますから、ほんとだったら恋の浦でタオルと風呂敷の日よけ姿を獅子舞呼ばわりしてたやつらは下手すりゃ袋叩きですよ。
でも・・・あまりにもツボにはまっていたので、獅子舞はことしの名言入り間違いなしです。
1台めに客を乗せてシーソーの端までバックでクライム。続いてもう1台に客を乗せてシーソーに乗り込みます。
それだけでもなかなかのインパクトがあります。
もう1台側のお客。最初の1台に置き去りにされた方は阿鼻叫喚の悲鳴連発。すでに何を言っているのか聞き取れません。おお、素晴らしいパーキングブレーキ性能。などと言ってる場合じゃない。
偶然見ていた「世界の果てまでイッテQ!」とかいうバラエティー番組のコーナーですが、当然こちらの2人にもとんでもない事態がおきるのです。
今どきこんな年式の固体がこんな形で活躍しているとは。と、テレビを見ている側はちょっと感動。
いつ頃のモデルだろう? せいぜい1か2型だと思われますが。2台とも前後のホイールが違うところなんかが泣かせます。まあ元気に余生を過ごせているだけよしとしよう。ガレージには白い車体のものも待機しています。
てなわけで車内は地獄絵図の叫び声が渦巻き、2台目が前進したり後退したりしてシーソーゲーム。
番組サイトに放送内容コンテンツがあるので、そのうちアップロードされるかもしれません。いやいやいや・・・なんぼエスクード好きでもこれは誘われても勘弁してくださいだなあ。