Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

先駆者の時代

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C-10既に50年前にもなるモータリゼーションの頃、我が家にあった自家用車がスズキでした。これ、親子の越えられない壁(笑) 僕がなんぼエスクードに傾倒しようとも、先駆者であり開拓者という意味で、このフロンテ800がうちの親父のスズキ談義における切り札なのです。

がしかし、これに乗せられて出かけると故障し、修理に赴くという記憶しかないのが、逆襲の一手でもあります。

それでも、モータリゼーションなんて東京と名古屋の間の話のようなもので、この車が写っている数少ない写真はすべて砂利道の上です。わざわざ林道になど行く手間もいらなかった、そこらじゅうダートのドライブでしたから、チェーン駆動方式というのは弱かったのかもしれません。

jb23w-7何の因果か、お袋の命日の翌日が親父の誕生日でして、どうやらことしは傘寿の祝いらしいので、たまにはおだてておくことにします。

が、人の努力をことごとくあざ笑うかのように、うちの親父はジムニー乗り。双方絶対に譲らない、壁どころか永遠の溝です。

 

PONっ!

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これは二個目。

これは二個目。

サボテン咲いたよー♪

写真は三日前の二個目の花。そして今日は三個目と四個目が同時に咲いてます。
一日で萎んじゃうのが勿体無いなーと思うのだけど、月下美人なんて一晩だもんねぇ。

一回忌

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木陰の記憶お袋が急逝して1年が経ってしまいました。

何をいまさら、こんだけ毎日くだらないブログを書いていて「いつの間に1年」だよ。なのですが、単身赴任していて基地に居ない日常というのは、時折、現実と乖離している自分があることに気づかされるのです。

取り残されている、と言った方が正確かもしれない。

あの日、家族は早朝から大変な思いをしていたはずで、僕が帰宅した夜にはほとんどの段取りも済んでいて、ありていに言えば何の役にも立たなかった。

親戚の美容師の娘さんが施してくれた化粧で、ごく普通に眠っているとしか思えない姿の前で、いったい自分はいま、何処にいるのだろうと、思考すらまともに働かなかったにもかかわらず、部下や客先からの電話には臨機応変な受け答えをしていました。

狐につままれ、貉に化かされていたようなあの日。しかし欠落したいろいろなものの中には、悲しいとか寂しいという感情も混ざっていて、親の野辺送りだというのに、他の家族のように泣くわけでもなく蹲るわけでもなく、淡々と過ごしていました。

いや、生前やれるだけの孝行はきっとできていたはずだから、いいんだけどさ。

ああ、1年経っちゃったよ(一回忌の法事は先週末に済ませております)

早くも

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ぴかぴか☆

ぴかぴか☆

初収穫♪ だけど、一日遅かったかな。
(だって採っても食べられなかったし)

まあ、仕方ないけど。採りたてうまー。

さて。これが生った蔓、間違って新月サンが折ってしまったのだけど。
脇芽が伸びてくれる事を祈るわ。

Team WESTWIN Warriors #086

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da2014-3j準決勝スタート時にフライングで2秒加算。さらにコース上のテープタッチで2秒のペナルティ。まあテープタッチはやむなしとしても、フライングとは情けないらしくない。いったい何をやっとるんだと尋ねたところ、

「かなりの脱水状態でした。これは練習走行の頃からそうだったらしく、よく決勝まで持ちこたえたと思います」

との島監督の談。実際、第2戦を一つの正念場と考えていた後藤誠司選手には、周囲が想像もできないプレッシャーを背負っていたようです。

しかし、フライングの時点で

「よそには悪いけれど、これで互角になったね」

と分析していたのがウエストウインの面々。平均値としておおむね60秒少々で、多くの選手が走る中、後藤選手は50秒代半ばがアベレージなのです。どの程度のペースで走っているか、計測室で別の打ち合わせをしている島監督には、通過していくエスクードのエンジン音だけでわかるとか。

「J20Aが高回転まで回る音というのは、得も言われぬほどに好い音なんですよ」

エスクードはクロカン四駆の端くれだと思い込んでいましたが、TDAにおける後藤選手のドライビングはほぼ4L固定(たまに4Hの使用もあるらしい)なので、よほどのタイトコーナーでなければレヴカウンターが3000以下に落ち込むことはなく、コースを攻めるにしても滅多に4速にまでギアを上げる余裕はありません。

ということは、中速域ギアで引っ張ってもレッドゾーンすれすれの回し方になっている。その回転域でトルクもパワーも落とさないミッション操作とペダルワークは、必然的に後藤選手独特のドリフトスタイルにつながっていきます。

良く壊れないものだ・・・というより、なかなか頑丈なエンジンだと言えるでしょう。

今回、トラクション制御デバイスで武装した車種も台頭しており、20年近く前の機械の塊で戦う後藤選手を脅かす要素が増えています。それを打ち負かす余力が、まだエスクードにはある。

再三再四、タイヤの選択がどうにかならないものかと助言しているのですが、スポンサードの絡みもあってこれが実現できないことが残念です。それでもペナルティを跳ね返してしまうのだから、ツボにはまった後藤選手はたいしたものです。

これには秘密があります。

何年か前にも、後藤選手はペナルティを受けたことがありましたが、その時の内容は「寄付金10000円支払うか、タイムの上乗せをするか」でした。

このとき迷わず「上乗せ」を指示したのは、何を隠そう後藤夫人です。

うーむ、そりゃ4秒くらい跳ね返さないと帰宅後がこわいかもなあ。

おさかな三昧。

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しまあじ~♪

しまあじ~♪

「しまあじ食べませんかー?」と、新月サンに知り合いからメールがきたので。オマケで連れて行ってもらいました。

「外道も引っかからなくてどうしようかと思ったよ」と
知り合いのオニイサン曰く。
数少ない釣果のご相伴に与り、光栄でございます。

・・・これで暫く回転ずしには行けないわ(汗)

三陸は山瀬の季節

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首都圏以西の人には疎まれるかもしれませんが、16日の昼下がり、田野畑村の気温は16℃。天候も芳しくはありませんが、こんな陽気ですから田野畑レディースのおば様が作ってくれるラーメンがおいしいのです。

地元のFM放送では、岩手県内の著名無名な「ここは美味いソフトクリームの店」なんて特集をしゃべっていました。おそらく盛岡市内あたりだとそれを聞いたらすぐさま近くの店に直行だったのでしょうが、とてもそんな気にはなれません。

しかしいいことばかりではなく、仕事が終わったら高速優先で帰ろうと、岩泉から早坂高原を越えて盛岡に戻るつもりだったのに、内陸は突如のゲリラ豪雨と降雹と一部道路の冠水と信号も停まる停電で、紫波町では避難準備も一時的に案内されたらしく、こちらは再びとぼとぼと45号線で沿岸を南下するしかなくなりました。

道の駅たのはたがどの辺かというと、ここより少し北(久慈よりは南です。写真の位置のことね)

このあと18時まで仕事をして移動ですから、帰宅は23時。この記事はつい先ほど書き終えたという弾丸出張でした。

もう少しっ!

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わくわく♥

わくわく♥

プラム・・・じゃなくてプルーンだった謎の木。
無事に色づきはじめました♪

どっちにしても収穫時期は7月から9月なので・・・ちょっと早い?
早く熟しないかなー。待ち遠しいなぁー。

あと6万キロのハードル

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2015-061515日早朝、BLUEらすかるの積算走行距離が54万キロに達しました。4月10日に53万キロだったので、月平均の走行距離が5000キロ台に戻ってきています。夏の間ならねえ、東北はどこへでもすぐに出かけていけますから、またちょこちょこと距離が伸びていくでしょう(冬は、冬眠したいのよ)

当面の目標までは、ひとまずあと6万キロです。エスクードの括りにおいては、それで暫定1位になります。

2015-0615bこのペースが維持できるとして、記録されているエスクードの最長不倒距離58万7000キロには、来年の夏くらいにたどり着ける計算となりますが、そのあと60万キロを踏んでから、どうすればいいんだろう? とも考えるようになりました。6万キロをあと1年半ほどで走りきる(馬鹿だよねそんなペース)というのは、時間が短くとも物理的な消耗は変わらないですから、わずか1年半でどれだけ状態が悪くなるのか、想像しながら乗らなくてはなりません。

でも今のところ、特別具合の良くないところが無い。

こうやってあきらめの悪いユーザー感覚が醸成されていくのです。

社会資本の意義

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普代村明治29年だと、僕の曽祖父の時代ですから、当時を知る一族はすでにいません。その年の6月15日、三陸地方はマグニチュード8クラスの地震とともに、巨大津波の被害を受けました。その後の誘発地震の中でも、昭和8年の三陸地震も同規模の大被害を出していますが、これまたうちの親父が生まれる以前なので「すまん、岩手のことはわからん」(親父)というのが歴史。

ついでに言えば昭和35年のチリ地震も三陸に津波被害を与えているけれど、これも僕が生まれる前のことで、文献でしか知りません。が、宮古市田老や、ここ普代村の大田名部防波堤は、子供の頃に親父に連れられて見学に来たことがあります。なんせ子供の頃ですから身長が今より50cmは視線を低くしていたはずなので、田老の高さ10mの長大堤防でも要塞のように見えていました。

しかし東日本大震災の津波は、田老のそれは乗り越え、わずか5m高さの上回っていた普代村では防壁として機能し津波被害を防いだのです。

大田名部防波堤は昭和42年頃の完成。建設途上に起きたチリ地震の津波を防いだことで、その有用性を示しましたが、往時の普代の村長が周囲の批判を押し切ってまで、怪物のような防波堤と、これに連携する水門建設の主張を続けたことが、21世紀においても役に立ったということです。

それは明治三陸津波、昭和三陸津波における多大な被害を聞き知っていたことと、その歴史教訓を受け継ぎ伝えるという義務を果したからにほかなりません。

いま、景観を損なうとか、刑務所の壁のようといった批判で、新たな造られたり造られようとする防波堤に、ブレーキがかかったり待ったの声が上がったりの歴史の繰り返しがあるけれど、次に来るであろう津波がそれらを越流したとき、被害に遭う人々が出てからでは手遅れではないのかと感じます。