群馬県の遺跡から「東北産の遮光器土偶片」が発掘されたと聞きおよび、一般公開の期間中なんとかこれを見学に行くことができました。出土した土偶片は、東吾妻町の唐堀遺跡に埋もれていたもので、今のところこのような説明がなされています。
参考展示に、青森県亀ヶ岡遺跡から出土した有名な遮光器土偶の原寸大二次元図が置かれていました。
唐堀のものは破損(儀式により破壊された?)した頭部のみの発掘ですが、復元できれば亀ヶ岡なみの全高35センチに匹敵する立派なものです。群馬県内での遮光器土偶出土例は過去に7回あるものの、すべて何らかの方法で「オリジナルの土偶を群馬の地で模倣し制作したもの」だそうで、学芸員さんによれば今回の土偶は
「目視による推測の段階ですが、細部の造形からみて東北で作られたものがこの地に運ばれてきたと考えて良いでしょう」
説明板には群馬と東北の距離を400キロと記していましたが、それは直線距離であり、地形の高低差だとか道のりとしての隔たりを考えるとそんなものでは済まないでしょう。学芸員さんは
「縄文人は丸木舟による海上移動を行っていましたから、様々な物資とともに持ち込まれたのかもしれません」
と述べ、これは私の個人的な印象だけれど、と前置きしながら
群馬、北関東で作られていた土偶(一例として左の写真のハート形土偶)とのデザイン、造形にあまりにも差異がありすぎ、異形ともいうべき遮光器造形の土偶がどう受け止められたのかに興味が尽きない。その受け止め方によって、「こちらの縄文人が持ち帰った」「向こうの縄文人が持ち込んだ」という推理に分かれてくるのではないか? いずれにしてもこの土偶の材質など細部にわたった調査はこれから進められる。
そんな話をしてくれました。なるほどなー、図鑑や博物館でいろいろ同時に見られる現代の我々とは異なる時間軸と空間軸で暮らしていた、ざっくり3000年前のファーストコンタクトだものねえ。
このお話を聞きながら思いました。持ってきたのか持ち帰ったのかのどちらにしても、「その縄文人」にとって、相手側どちらかの縄文集落への旅というのはそうそう何度も繰り返せたものではなく、ひょっとしたらただ一度の邂逅だったということも考えられなくないだろうか。もちろん彼らはそんなことを意にも介さず縄文の道を辿ったのでしょうけれど、来週行くわ、来月くるぞ、という簡単なものではなかったはずですから。