宮城県石巻市で繰り広げられてきた大川小学校津波訴訟に対して、仙台地裁は原告である遺族側の主張を大幅に認め、宮城県と石巻に賠償を命じました。東日本大震災において74人の児童が津波に巻き込まれ亡くなった、その犠牲は(学校の)監督上の過失ではないのかという訴訟の、ひとつの結論が出るまでにこれほど長い時間がかかりました。ひとつの、というのは、被告側の控訴が行われるかどうかまだ明らかでないためでもあります。
新北上川河口に近い右岸側の同校で津波の予見可能性 予測できたか否か。
津波到達までの約50分学校にとどまったのは何故か。
15時時30分に新北上大橋のたもとに避難したことの判断ミスの有無(直後の37分に津波が到達)
学校敷地に隣接する裏山に避難が可能だったか否か。
こうした論点で争われた結果、15時30分に石巻市の広報車両が学校付近にて津波来襲と避難広報をしていることで津波は予見できたし、裏山への避難も短時間で可能であったことが指摘されました。
新北上大橋のたもとは、学校校庭よりも嵩の高い場所でしたが、その差はわずか7m。10mの津波に対する避難場所としては適当ではないのですが、ここには「そもそも10mの津波」という災害自体をイメージできなかった不幸も重なります。さらに新北上大橋には、押し寄せる津波が河口からたった4kmの遡上の間に両岸の集落に遭った構造物や樹林をなぎ倒して巻き込み、橋のトラスに引っかかって橋自体がダム化してしまった。その膨大な応力は橋の左岸側のトラスを1ブロック破壊して遡上を続ける一方、児童が避難した右岸側のたもとに一気に溢れ返り、同時に学校一体も水没したのです。
当時現地に何度も足を運んで、そういった状況を知ることができました。第3者の客観視においても、あの地震を体験してなぜ現地にとどまったのかは腑に落ちないの一言に尽きていたのですが、学校自体が災害時の広域避難場所に指定されていたことや、そのため地域住民との情報交換等も行わねばならないと言ったジレンマも抱えていました。
裏山は急斜面で土砂災害の懸念もあり、あの日の天候(夕方から降雪)もあわせて低学年児童に避難は不可能と学校や石巻市は主張していました。しかし、橋のたもとからは裏山の裏側を舗装の県道も通っており、この道路を使えば裏山の雑木林でなくとも、より高台に移動できたはずでした。
あの年の3月、新北上川は津波の日の夜から地場の建設業者が濁流につかりながら土のうを積み上げ、2日かそこらで緊急復旧を行いました。よくメディアに映る自衛隊は、その啓開された道があればこそ被災地に乗り込むことができたのです。まあそこは僕も同じでした。左岸のようやく通れる堤防上の道を寸断された橋まで来ると、対岸側のトラスが500m以上、上流に投げ出されて水没しており、越流と決壊によって堤防の内側(堤防というのは川に面している側が外、隔てられた陸が内)も川とも沼とも言えない状態で、国土交通省がかき集めた数十台のポンプ車が越流した水を川に戻していました。
その堤防の土手に、沢山のランドセルが泥を落としてもらって並んでいる光景は忘れられません。遺族の方々の中には自ら重機の免許をとり機材を調達して、この何年もの間、自力で捜索を続けていらっしゃいました。だから、この訴訟は賠償がどうとか責任の所在がこうとかの領分ではない、何かを訴え縋らずには前に踏み出せない性質の、どこか争いでもない対話の場だったのだと思います。
すべて結果論の世界ですが、同時刻に「釜石の奇跡」と呼ばれるようになる、岩手県釜石市の小中学生たちの自主避難行動とはあまりにも明暗の分かれた悲劇。まさか、よもやと脳裏によぎるものを持ちながらも現場の判断ができなかったことがすべての始まりであり、教訓になるのだと感じます。しかし大川小学校が遺構として残されたとして、新北上大橋は現状復旧されたトラス橋のままです。右岸の同地に人は住まなくなるでしょうけれど、次の津波でも同じ越流が起こるでしょう。