食器棚の上で、細々と育ってるセントポーリア。 10年振りくらいに花が咲きました。 猫ずに蹴り落されたり枯れかけたりで 最初置いてあった位置から移動してるので どの鉢が(6鉢くらいある)何色の花か 全く分からなくなっている・・・ しかもどれかは葉差しで増やした鉢なので 更に不明(爆) とりあえず、咲いた鉢には札付けとこうね。
ぷらすBLUEのインナードアハンドルは、幸いにも部品が出てこの週末に交換となるのですが、今度は
次から次へともう・・・
磨滅もそうだけれどサイドウォールのひび割れも看過できない。しかしデューラーA/T694なんてもう生産されていない。今だと002になってますが、215/75R15がこの銘柄に無い。M/T674にならあるけれど、メーカー小売価格が一本28000円近くする。
そういうことならぷらすBLUEもヤマタノオジロに次いで(こっちはH/Tですが)サイズがあるのでオープンカントリーのA/TⅢにしようかと考えていたら
「オープンカントリー、最近R/Tでひび割れ続出で、4年あるいは3万キロももたないとジムニー乗りが泣いてます。今はお勧めしていません」
などと言われてしまってさて困った状態です。うちの694も骨董品ですが、昨年、裏山を走ったときにはそこまで劣化していなかったんですよ。油断してました。
暖かい陽気だけどラーメン、とか短絡的に潮来市の坂内に立ち寄ったわけですが、献立を見ているうちに何をどうしたのかカツ丼が食いたくなってしまい、これがまた都合よくカツ丼セットがあるので注文してしまいました。
そこそこまともなカツ丼だったのでそれは良いのですが、喜多方ラーメンの方がハーフサイズだったのですよ。
むむむ・・・俺はいったい何のためにここへ来たんだよ。といういくらかの後悔がよぎり、それがたまたま連日東関道沿線での仕事だったこともあり、翌日再び行ってしまうという始末。
ところが今度はどこから刷り込まれたのか炒飯が食いたくなり、半炒飯セットを頼んでしまう優柔不断さ。様々な可能性に配慮してるのだと自分に言い聞かせております。
そんなことをやっている間に、なんと、最寄りの店舗でも半炒飯セットが復活しておりましたよ。なにやら夏場対応では冷やしラーメンとか冷やし中華風喜多方ラーメン(これも冷たいんだろうなあ)も出てきました。少ないスタッフの人数で善戦しているではないですか。これまで喜多方ワンタン麵という反則技をやらかしていたのですが、「トッピングでワンタンやりますよ」と言われちゃったから、次回はそれだな!
隣の山の宍戸ヒルズで
芝刈り日本ゴルフツアー選手権の最終日が賑わっている中、こちらの山のつくばーど基地では毎年恒例、新月・風花夫妻に手伝ってもらいながらの草刈と生垣の刈り込みが行われていました。例によって僕が一番役立たずなんですが、それでも彼らが来るまでは、朝から電動刈払機に振り回されながら前庭の繁茂と格闘し、低木の枝打ちを進め、集合時間には腕も上がらない状態になっておりました。
何で役立たずだったかというと、数日前に仕事で地下40mまで徒歩で下り上りを二度やって、二度目の上りではもはや足が上がらず息が上がり、両腕で手すりを使って這い上がる情けなーい有様だったのです。いや、そこの笑ってるあなた、いっぺんやってみろよ15階建てのビルでいいから階段で屋上まで二往復だよ。そんなわけで草刈りの最中からペットボトルすら飲みたい位置まで持ちあげられないしょーもない無様さでした。
1954年のこの話は11月にも別視点で書くと思いますがつまり、「ゴジラ」の第1作が作られた年で、もう70年も前のこととなってしまいました。当然僕などは影も形もない時代で、84年にシリーズ原点回帰となってリメークされ、有楽町にサイボットゴジラが飾られたところまで、いわゆる怖いゴジラは体験していませんでした。71年の「ゴジラ対へドラ」は別格で怖いんですが、怖かったのはゴジラではなくへドラとへドラを産み出した公害の方でした。
2024年。その年から70年経っても、蓮田さんの前方にある鉄橋を一般人は渡ることのできないアメリカが横たわっています。なぜわざわざ横浜かというと、ドラマや映画でよく見ることのあった「バー・スターダスト」「バー・ポールスター」もまた、1954年の営業開始でした。最初のゴジラが東京湾から上陸したとき、横浜は被害から免れたのでしょう。「三大怪獣 地球最大の決戦」や後のvsシリーズで何度か横浜が襲われましたが、この店は健在です。
青函トンネルが着工したり、マリリン・モンローが夫婦で来日したり、第五福竜丸が水爆実験の被害に遭ったり、鈴木式織機が鈴木自動車工業に社名変更したり、自衛隊が発足したり、遭難した洞爺丸に乗るはずだった長谷川一夫の一座が合流に遅れた笠置シヅ子を待って「乗らなかった」り、神奈川県相模原市など全国で沢山の市制施行が行われた1954年。うっかり忘れるところでしたが日本ジムニークラブ会長の二階堂裕さんもことし古希だそうです。
1954年といえば、那珂湊(現ひたちなか市)のわたなべ製麺所も創業の年でした。創業者が浅草で食したソース焼きそばの作り方を持ち帰り、今で云う「那珂湊焼きそば」を産み出すこととなりました。そのことと因果関係は皆無だと思いますが、フジパン下妻工場が那珂湊焼きそばとスナックサンドのコラポレーションをやっちまいましたよ。麺をちぎらないよう煩雑にほぐさず、蒸し焼きにするのが那珂湊焼きそばの作り方ですが、それはスナックサンドの製法では無理のよう。
というよりも、なぜ、&マヨネーズとしたのか。那珂湊焼きそばはソース味が基本で、醤油味も選択できる趣向の料理だけれど、近年はマヨネーズも使うのだろうか。香りにはソース焼きそばらしい風味が漂うのものの、食ってみるとマヨネーズ味の圧勝です。これはまあ好みの分かれるところですが、やっぱり焼きそばだけ食いに行くか通販で購入して作るかしないといけませんかね。
2日に行われたTDA第2戦について、川添哲朗君から報告が入ってきました。リミテッドクラスとアンフィニークラスのダブルエントリーは今回も踏襲されましたが、本戦前の練習走行の際スキッドプレートの隙間から泥を拾い、コンプレッサーとファンが破損して常にオーバーヒートの状態になってしまったそうです。これだといつものようなライン取りやコーナリング、立ち上がりのポイントを探るための「一本でも多く走り込みたい」プランが思うようにいかなかったでしょう。
リミテッドクラスは参加台数が21台と多く、敗者復活枠での1本勝負の方が出走回数を少なくできます。初戦は棄権し敗者復活枠へまわり、1本走っては水温チェックとクーラントの補充。エンジンを冷やすためヒーターを全開にして走っていたため、自分自身がオーバーヒートしないよう有効時間をいっぱいに使いながらの戦いになりました。ベスト4まで残りましたが、準々決勝で森川さんと対戦し負けてしまい3位決定戦。ここは勝ち残り、結果リミテッドクラスは3位になりました。
アンフィニクラスは出場台数が11台と少なく、順当に勝ち上がる事にしました。決勝まで進みましたが、決勝で和田君に負けてしまい、アンフィニクラスは2位になりました。
今回、泥と底づき対策でスキッドプレートの取付け、マフラーのエンドの絞り、スロコンの取付けを行いました。
スキッドプレートは底づきには良かったですが、側面の隙間から泥が入る事が分かったので、もう少し改良が必要です。マフラーはエンドを絞ったことでトルクが出ている様に思います。スロコンは配線がいくつか種類があり取付けに苦戦しましたが、立ち上がりのもたつきが少し良くなったかと思います。欲を言えばパワコンかサブコンが欲しい所ではありますが、やはり足回りと軽量化だと痛感しました。まずは出来る所から、ボンネットとドアの軽量化をやっていきたいと思います。
次回は9月開催、いくらかスペックアップの時間は作れるかもしれませんが、視点を変えると、リミテッド、アンフィニを続けてエントリーするのは川添君の十八番とはいえ、このエスクードのエンジンはノーマル仕様のM16。三代目のショートは、初代や二代目ではロングボディのサイズに匹敵する。まだまだ重いのです。それをして三位と二位に持ち込んでくるところは凄いことだと思います。ただ、川添信条は「二位以下はビリと同じ」なので、ハンデに抗うシーズンは続きます。