初めて採れたピーマン。
どうやって食べたら美味しいかなぁ・・・と考えて、肉詰めにしました。
一緒に収穫されたキュウリは、また味噌マヨで。
肉詰めの煮びたしにしようか、焼いてハンバーグみたいにソースかけようか、悩んだ結果後者に。
しつこいぞと言われそうにもまたダカールラリーの歌を出してしまいましたが(先日のは二番の歌詞)、なんで低い雨雲だと天使が降りてくるのかようわからん上、そんな日に降りてくる天使なんざ、ろくなもんじゃねーよと思います。
そんな霊的な話はけたぐりをかまして、尾上邸におじゃましたらご夫妻ともジムニー歴史館に出ており、電話をかけたら「すぐそっちに行くよ」
尾上会長が戻ってくるまで「雨降って来なけりゃいいなあ」と低めの雨雲を見上げながら、ガレージの中のコンバーチブルをガラス越しに撮ったら怖いことに(笑)
「いやーお待たせしたー」
と、会長はジムニーじゃなくてエブリイで現れました。それ自体意表を突かれたのですが、戻ってくるなりガレージの引き戸を解錠もせず動かすではありませんか。
↑同行した狼駄さん、もう嬉しくてしょうがない。
彼にとっては、自身も乗っていた01Rの1型で、しかも同じ色です。ああ、ということは、うちのぷらすBLUE(2型)よりも、このレストア車の方が古いことになります。
こんな段取りで、あとは会長と旧知の中である和邇さんにも声をかけておいたので、それを待ちながら取材していたのですがやってきたのは二階堂さん。するとメール着信、「役員に捕まりまして。ごめんなさい」と。あの人、いつもあと一歩のところでというブラック魔王と似たような顛末なのです。しかし、こういう面子が万が一1人も欠けずに揃っていたら、天使どころか何が降りてきたかわかったもんじゃないです。
日曜日のあさ昼「お腹が空きました」
と、朝ご飯食べてない新月サンが主張するので
(私も食べてないけどな)
超大盛りでご用意致しました。
但し。
例の一件(すっからか〜ん)で、めぼしい食材が殆ど無いので・・・
野菜室にあったトマトと買い置きのツナ缶でつけ麺なぞ。
パスタにしても良かったんだけど・・・
マンネリ気味だったので、ここは一発変わり種で攻めてみた(笑)
スーパーの麺売り場で〝トマトラーメン〟とか〝レモン焼きそば〟とか目にする度「絶対いらない」と拒絶してましたが。
これしか出てきませんでしたので、渋々口にしましたわよ。
採りたてのパセリも刻んだし、冷製パスタだと思えば!
(だったらパスタで作ればよかったのでは・・・)
ま、思ったほど違和感はなかったそうで、無事完食いたしました。
この1年近く温存してきたお話です。昨年5月のエスクード誕生30周年記念イベントに参加していただいたユーザーさんのうち、親子でそれぞれ初代のTD61WとTD51Wで乗り付けてくださったMaroさん(息子の方)は、このとき、翌月に控えている車検を通さず、ミーティングを最後にTD51Wを退役させると告げていらしたのです。それもあって、四世代モデルを並べる撮影にも車両を出してもらったのでした。
彼のお父さんの「そういうことなら私のV6を倅に譲ろうか」という一言も印象的でした。そのエピソードは、昨年7月に出ているスーパースージーの連載にて紹介しておりました。残念な思いはぬぐいきれないけれど、Maroさんがエスクードに乗り出すきっかけや、これまでの交流の節目と思って、記念のような記録のようなルポルタージュとしたのです。
一度は、はまたにさんがコンバーチブルを退役させたときのような物語仕立てにと考えたものの、このときはリアルなルポで親子のエスクード熱を書き留める方がふさわしいと決めました。
で、編集部には6月のうちに写真と原稿を入稿していたわけですよ。そしたらですよ、この107号が出る前日のこと、某桶川で悪いおっさんたちの密談の最中、「Maroさん、うちにエスクードを持ち込んで処分する手はずだったんですけど、先日電話があって、やっぱり車検を通すって」という発言が飛び出したのです。ちょうどこのとき。
な、なんだってーっ ←普段なら大文字
びっくり仰天ですぐさま、Maroさんに連絡をとったら、バツが悪くて言いそびれの最中だったそうです。そこから、なにがどう状況を変えたのかお話を聞きたくて、この5月までMaroさんの休暇と取材のすり合わせを進めてきました。それが本日発売のスーパースージー113号の連載記事です。事実は小説よりなんとやらですが、今度はルポじゃあ面白くないので、奥方のお話も交えて物語にまとめました。かくしてTD51Wとも1年ぶりの再会を果たせました。
と、うっかりダカールラリーのイメージソングを使ってしまいましたがアフリカの話ではなく・・・1989年8月といえば、スズキエスクードはようやくデビュー1年目の夏にさしかかったところで、まだエンジンも改良前だしノマドも世に出ていません。市場ではそこそこの売り上げだったものの、四駆としての~なにしろこの頃はSUVなんて生暖かいカテゴリーは存在しなかった~評価は決して高くありませんでした。
メーカーサイドはどちらかと言えば開発コンセプトを優先して「都会的な四駆」(今思えばわけがわからんというか、要するにシティサーファーのような揶揄の逆利用)をセールスポイントにしていましたが、やっぱりエスクードだって四輪駆動車の端くれなのです。
それを実践したのが、当時アピオ社長だった尾上茂さん(現会長)による89年のオーストラリアン・サファリラリー(現オーストラル・エイジアン・サファリ)への出走でした。シドニーからダーウィンまでの6500キロを10日間で走りきるこのラリーレイドに、1600ccクラスはラダ・ニーヴァとダイハツのタフトやフェローザが出ていたそうです。エスクードで車種が増えたことで主催者がこのクラスでも賞を新設し、尾上さんは初めて投入したTA01Wでクラス優勝を遂げました。
ずっと後になって、僕が知り合う前の和邇さんはよりにもよって01Rのサイドキックで、僕はノマドのV6で、それぞれプライベートで彼の地を走ったことがありますが「保安部品で補強してシートを変えたとはいっても、ラリーカーのシートだし、あの車であそこを1日650キロなんて馬鹿じゃね?」という共通見解を今だったら言います。
けれども当時、10月以降になって四駆雑誌が記事で取り上げたときには「うちのと同じ車だよ、すごいぞこれ」と小躍りしたのです。つまり2019年は、エスクードが初めて世界的な舞台で話題を勝ち取った日から30年目にあたるのです。これは失礼ながら、アピオの創業50年よりも偉業なのよと言いきってしまいます。
いやまあ・・・乗っていない人には、だからどうしたな話ですが。
1日650キロというオーダーは、東日本で言うと、つくばーど基地から青森県中泊町にある小説「津軽」の像記念館まで、規定時間内に走る計算です。ほぼ東北道経由でターマックだから、これは不可能ではありません。が、オーストラリアン・サファリではリエゾンはともかくSSだったらここまでの距離でなくとも、ごちごちの砂漠ですから、未知数の車をよく持ち込んだものです。
尾上さんも、同行した二階堂裕さんも、これくらいのラリーだったら車(エスクード)はどうにか壊れないと言います。これくらいの距離はそれでもぎりぎりのところで、このあとのダカールラリーでは6000キロあたりでミッションがだめになったと。それにしてもラダ・ニーヴァ、タフト、フェローザを向こうに回してクラス優勝。どの車両もオフロードの競争相手としては強敵だったと思われます。その中でもオンオフ折衷の、荒れ地を走った経験もないエスクードが勝ち抜けたというのは、今頃と言われようとも書き留めておきたいことなのです。
で、ひとまず尾上会長のご自宅でそういう昔話をうかがっていたわけですが、そこへ何の前触れもなく二階堂さんが9日発売のスーパースージー113号を持って現れるではありませんか。二階堂さんは談話に加わってくれて、まだ埋もれているオーストラリアンサファリ話を盛り上げてくれました。113号、実はアピオ創業50周年企画が組まれており、オーストラリアやダカールの話もちょっと出てきます。
が、我々エスクード乗りにとっては創業50年以上に「世界のオノウエ」を成し遂げたクラス優勝30周年の方が大事。
・・・あ、レストアされたコンバーチブルのことですか?
この日は撮影用にガレージに移動してくれていたのですが、実は日頃は、尾上邸のリビング(談話中の写真)に動態保管されているのです。リビングですよリビング! ああっ、なんちゅーうらやましい話なことか。もうそれでいいなと思ったことは思ったんですが、再度「ジムニー歴史館に展示しなけりゃお百度踏みます」と陳情してきました。
牽牛と織女が一夜だけの逢瀬を許され渡ることのできる「天の川」、つまり「銀河」とはその伝えと同様、中国の言葉から日本に持ち込まれたものですが、夜空を見上げたときに「そんな色彩に見えたから銀河」というセンスは絶妙だなあと思わされます。その銀河が天の川銀河の一部を見上げていることは言うまでもありません。宇宙的スケールで言うと直径約10万光年、厚さにしたら約1000光年というとてつもない 「河」です。
もうこれは超空間ドライブを搭載した宇宙船でも重労働。銀河パトロール隊(を唐突に引き合いに出しますが)もかなり小割りしたディビジョン編成しているのかもしれません。ってことには関係なく、レンズマン(劇場版じゃなくてテレビシリーズ)。天の川を渡って逢瀬する二人にはちょっと賑やかですが、七夕の夜銀河が見えたなら、小島恵理さんの曲を聴きながら帰ろうと思います。
本日朝から放送開始だそうですが、劇中車は日産の提供です。
まーあれもこれもエスクードじゃないのーっ? という無い物ねだりをしてもせんないことです。東映のメタルヒーローにでも復活してもらわないと(笑)
ジムニー歴史館がまだ公にされていなかった頃、建物自体、敷地の埋蔵文化財調査なんかやってたくらいでしたか、尾上茂さんにレストアされたTA01Rを見せていただいたのです(この写真じゃありませんが)
その当時は、01Rも歴史館内の隅っこに展示される構想だったのです。
が、もうその後あれやこれやのオールドジムニーがレストアされちゃったものだから、置き場が無くなってしまった。あえなくこのエスクードは歴史館の倉庫入りという憂き目に。
と懇願したら
という話で、半ば強引に「見にいっちっゃていいですか、いいですよねっ」てな展開になりました。それこそ、それからの件はそのうちに(なんだそのオチは)