休み中に遊びに行った実家で、母からもらいました。
イベントで売っていたのか誰かから貰ったのか聞きそびれましたが。
某朝ドラの架空の村だよねぇ。
そこは県北、こっちは県南。
(そして製造販売してるのが県西の会社っていう(笑))
休み明けてから、会社で美味しく頂きました。
特別考えも無しにトイザらスに出かけて驚いたのは、プラモデルのコーナーはあるけれど八割以上はガンダム関係。そこに用は無いのだけれど、コーナー端っこにあったはずの塗料やら薄め液やらトップコート類がまったく無くなっていました。接着剤すら買えません。
「ええ、今のガンプラはスナップフィット組み立てで接着剤は不要ですし、ランナーも色分けされているのでそのまま完成させられます」
そんなこた知ってるけど、そういうことじゃないのよ・・・ と思えど、近場の模型店はみな閉業しちゃったし、個人の玩具屋自体、トイザらスの進出で何十年も前につぶされて久しい。そのトイザらスが他の量販店や通販に押されて品ぞろえの整理をした影響を、こんなところで味わうとは。ホームセンターにも寄ってみたけど、マスキングテープなんか売ってませんわ。あり合わせと在庫で作業に臨むのですが、手持ちのスプレー缶が完成まで空にならないことを祈るばかりです。
というわけで、まあいつものろくでもない遊びなのですが、新・仮面ライダーSPIRITSの解説では、バダンが開発した特殊戦闘バイクとしか記載されていなかったので、著者の村枝賢一さんには無断で勝手に「デスハウンド」と命名しました。後に仮面ライダーゼクロスが名付ける「ヘルダイバー」という名前と対称化するなら「アークエンジェル」とでもしたかったけれど、それはあちこちで使われていたのでやめときます。
英語圏、といってもアメリカでなら通じる言葉だそうで、「CUP OF JOE」というのは一杯のコーヒーを示すスラング。しかし一見目立たない(おい、いきなりなんてこと言うんだ)佇まいながらコーヒーのメニューは豊富で、なんといっても上美味い(僕の好みとして、ですよ)。つくばーど基地からだと30分ほどかかりますが、それくらいなら何の問題も無いじゃありませんか。
昼時は混雑するかなと思ったけれど、隣の弁当屋に来る人の方が多く、この人たちはその足で立ち寄り、コーヒーをテイクアウトしていきます。なるほどそういう手もありか。でも、このケサディーヤとサルサは弁当屋には無いのだよ。
図々しくも取材の協力をお願いしちゃいましたよ。二つ返事で快諾いただけましたよ。掲載誌を届けるまでの間にも通っちゃいますよ。
いったい何やってんだと言えば、スーパースージー113号のための取材なんですけど、駿河湾まで行くのがめんどくさかったのがバレバレ。でもエスクードがヘリーハンセン・リミテッドならば背景は海でなけりゃだめだよねと、わざわざ鹿島灘まで来ていただくという暴挙でした。しかも神栖の海岸とか小名浜の港とか候補を伝えておきながら、その距離すら億劫がっての、基地から最短距離。この居心地よい喫茶店が無かったら袋叩きでしたよ。
これが四枚組CDのおまけなのか、ピンバッジセットのおまけにCDが四枚ついてくるのか、ようわかりません(企画的には前者だそうです)
先日、エンブレムシリーズで血迷ったばかりなのに・・・ こんなことだと「仮面ライダー生誕五十周年」が今から怖い。
しかしですね、この企画、ラジオ番組とのタイアップだか何だか知りませんが、声優二人が出てきていちいち番組紹介をしゃべくりやがる。一部の楽曲を除いて歌った人がどうでもいいコメントを語る。
そんなのライナーノーツに綴っとけば済むことで、これを買い求める人にわざわざ説明するという演出自体が無用の長物。しかもですよ、「仮面ライダー剣」の第二オープニング曲が無い。「仮面ライダー響鬼」の収録はなんとエンディング。これはそれぞれのファンは怒るだろうなあ。
と思ったら、四枚組版ならば四枚目に、全ライダー主題歌のノンストップミックスがあって(これだけ別売版もある)、そちらには「剣」の曲は入っていました。ところが「響鬼」は第二オープニング曲を拾っているだけで、ファンが期待していたであろうあの曲はやはりありません。
プロデューサーサイドはほんとに「響鬼」前半に思い入れが無いんですねえ。それなら「クウガ」も消しとけばいいのに←暴言
ついでながら、一枚のディスクにそんなに沢山収録するなら最初から一枚で済むじゃないかと再生したら、四枚目はテレビ放送スケールのメドレーで、ノンストップという割にはぷつぷつと途切れがちなドへたくそミキシングでもあります。となるとこっちで個人の趣味として編集していらねー声優談義や歌い手コメント削除してやろうとしたんですが、それぞれの楽曲トラック上にあるんで安物の車載オーディオでは歯が立ちません(泣)
異論を唱える人もいるとは思われますが、スズキエスクードのオーナーたちがオフライン・オンライン双方のコミュニケーションを始めたのは、エスクード自体がデビューしてからけっこう後のことになります。古参の人たちのお話を聞き取り総括すると、97年から98年にかけてが黎明期のようです。あちこちに小さなクラブができて、これがメーリングリストの普及で一気に拡大していきます。
僕は98年の後半にオンラインに参加し、翌年の今頃の時期、オフラインミーティングに出かけて行き、エスクード仲間たちと知り合うこととなりました。それ以前にエスクードユーザーの知人は風花さんと、もう一人しかいなかったことと、関わっていた四駆の集まりに同一車種が1台も無かったので、99年の春がひとつの基点になるのです。
このメーリングリストを、後に解体したのも僕です。400を越えていた登録者のデータを抹消したら、オフラインに残ってくれた人々の数は1割、メールでやり取りの可能な人が3割ですから、そこそこ以上に恨まれたと思われます。だけど二十年もするとコミュニケーションは方法もツールも様変わりしており、持続させるだけではどうにもならないものだと痛感させられています。継続は力だという時代は過去のものかもしれません。
ESCLEV はそういう袋小路にも備えてクラブとはせずに「部室」という性格を与えましたが、部室? 空き家じゃんと言われるのは無理もないこと。だって取材も営業?も、イベントやツーリングも、机の上では成り立たないから。←ひどい言い草
そんな経験値の原点は、二十年前のオフラインミーティングです。僕個人の印象は楽しくなかったけれど、あとで自分でやってみて幹事の苦労も良くわかりました。
自分で始めたときには世紀が変わって、二十年経ったら今度は元号が変わる。それだけやっててなにが進歩したかって、なにも成長していないんですが、面白くなけりゃずっと以前にやめちゃってたでしょう。
巷の声は「初代エスクード、もうすっかり見かけなくなった」ということですけども、そうですか居ませんか貴方の近場には。
親の兄弟たちからあてがわれたビートルズは自分のものじゃなかったし、教室の全員で歌わされるカーペンターズも違うと感じていた。
それらが嫌いだということではなくて。
クラスメートの女の子たちが、Queenに没頭していたけれど、深夜放送のラジオから半端な長さで流れている「ボヘミアンラプソディー」の楽曲は、僕にとってはうるさかった。
『オペラ座の夜』がリリースされて年が明けて、教室でのフレディ・マーキュリー熱の右肩上がりにうんざりしていた学校と別れての5月、真夜中の田舎では蛙が大合唱を始めていた。そんな時間帯にラジオが「さよならハリウッド」を紹介した。4分半ほどのその楽曲にちょっと聴き入った。
夏、ようやく、街のレコード店で『ニューヨーク物語』を見つけ出したのが、ビリー・ジョエルとの邂逅。すでに4枚目のアルバムだったけれど、初めて自分の楽曲を歌ってくれるシンガーと出逢った。その中に、これもまたラジオ番組ではかからないだろうなと思われる、ボヘミアンラプソディー並みに6分もある「ニューヨークの想い」があった。
まあ長ければいいってものじゃないんだけれど、曲も歌詞もその和訳も、根本的にボヘミアンラプソディーとは違っていた。そこが分岐点だったのかもしれない。好んで買い求めるレコードはビリー・ジョエルだけになっていった(もちろん嘘である。後にイーグルスのホテルカリフォルニアにもかぶれるから)
『コールド・スプリング・ハーバー』(71年のデビューアルバム)は田舎の街では手に入らなかった。上京した後にそこまで遡ってLPレコードがコンプリートされる頃には『グラスハウス』がリリースされていた。前後するが、それこそ後にも先にもチケットを買って出かけて行った公演というのは79年と81年の日本武道館だけだ(これも大ウソで、その後彼女に誘われて日本の某バンドのコンサートに連れていかれる。しょーがないのである。その彼女こそが今の妻であるもの)
閑話休題。
95年に生まれた長女がまだ幼稚園の年長組だったころ、先代らすかるのカーステレオから流れている「レイナ」を聴きながら”All for Leyna”と口真似をしたのを見たときには(そりゃもう何度となくリピートされていただろうから)ウルトラスーパー親ばかな顔になっていたらしいのだが、全然否定する気はない。
いやー、あのおっさんも、今日で70歳ですよ。でも、十代で出逢った音楽っていうのは、一生ものになります。今でもBLUEらすかるから流れてますもん。