Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

足元から竜が上がる

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十二支の干支の中で、竜は唯一、想像上の存在です。辰年は陽の気の脈動によって万物が振動し活力旺盛する、成長し形がととのう年とされています。超自然的とはいえ想像上の存在ごときにそんな効能があるのかよと思うのですが、身近で突然意外なことが起きたり、急に思いついて何かしらを始めることを「足元から竜が上がる」と言い、要は気持ちの持ちようなのかと半分納得するわけです。

竜の視点から見たらきっと「行き当たりばったりで暮らしてやがるくせにどうにかなってるだろうよ」などと言われそうなのがつくばーど®の在りようです。それでもいろいろなものが重くのしかかってきているのが現実。ここで足元に潜む超自然的想像の存在に頼るか、地に足をつけて前を向くかを決めなくてはならないのが人の辛いところです。

ぶつぶつ独り言ちていても2024年は始まってしまいましたから、今までどうにかなってきたならここからもどうにかなるんじゃないの? という能天気さを捨てることも無いのです。と・・・なんともいい加減な一年の計を立てることにしました。自分の力量を願みず強大なものに抗うとか、大それた計画や無謀なことをすることを「竜の髭を蟻が狙う」とも唱えますが、何も自分で自分を蟻呼ばわりしなくたっていいじゃないですか。

そのような気分で、遂に無謀で大それた計画の後半戦に挑んでまいります。

などと能天気なことをやっていた矢先、令和六年能登地震が発災し、極めて広範囲な津波と局所的大地震の被害が時間を追うごとに拡大しています。仙台での被災を思い返すと、それこそ自分には何一つできない無力さしか蘇ってきません。被災された地域の方々が少しでも平穏を取り戻せますようお祈り申し上げます。

Жаңы жылыңыздар менен

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うっかり忘れるところだった20周年

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ダカールラリーの2003年、二代目エスクードの改造車(プロト)で出走した尾上茂さんは、完走を果たし総合45位という戦績をおさめました。いつの間にか20年も前の出来事になってしまいましたが、この大会はスタート地点がマルセイユ。スペイン、チュニジア、リビアを経由してエジプト・シナイ半島先端にゴールする、初めてパリでもダカールでもない「テレフォニカ・ダカール」でした。全走行距離は8,576km、競技区間(SS)はそのうち5,254kmに及んでいます。

この年の優勝は三菱パジェロ(やはりプロト)の増岡浩さんで、日本人エントラント初の連覇を遂げました。さすがはワークスマシンとサービス体制です。10日間くらいでこの距離を走るのは正気の沙汰ではない。でも冒険型ラリーレイドだから当たり前で、そんなところへプライベーターで9回も出て行っちゃう尾上さんもタフなおっさんでした。

近年、ジムニー歴史館の知名度が上がったのか、地元ポータルや企業人を紹介するサイトインタビューにも尾上さんが取り上げられ、ダカールラリーのエピソードが語られています。嬉しいことです。「ダカールラリー エスクード」でググるといくつかヒットしますが、うちで書いたものが混じっているところがこっ恥ずかしいですね。

うっかり忘れてました。本来ならば今年の1月19日に出しておかねばならなかった。

 

スズキエスクード 90万キロ到達

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すっごくわざとらしいタイトルですが、例えばこういうキーワードで検索しても「エスクード中古車 九十万円」なんていうネット情報しかヒットしないものなんです。それだけ想像もできないバカげた話なんだと思います。

一時は間に合わないかなと諦めかけましたが、なんとかエスクード誕生35周年のうちに90万キロまで走りきることができました。

一夜明けて12月24日現在、それはもうちまちまとした距離しか伸びていませんが、既に「残り10万キロ」ではなくなっています。もちろん残っている道のりはとんでもなく長いことに変わりはありませんし、長い距離よりも長い年月をお乗りのユーザーさんには敵わないのですが、僕だって自慢したいときもあります。

世の中にあってはバカげた話ですが、もろ手を上げずにはいられず、ここからの道のりに呆然としてしまう心境です。

同で非なる質実剛健と簡古素朴

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かわねこさんが三代目エスクードについて、読んで愉しい記事をまとめているので持ってきちゃいました。バーゲンプライス、投げ売りなどという話はよくありましたが、三代目がそれほど不人気だとは思っていません。そのあたりが実際のユーザーさんとの見え方の違いかもしれません。だって三代目って、僕にしてみたら質実剛健と同時に豪華絢爛な四駆でもありましたし、時々借り受けて2700と3200を知っていますから、比べたら初代が以下略。

「質実剛健」という言葉は、明治天皇が産み落としたものです。細かく言うと、1908年に発布された「戊辰詔書」にその原型が記されています。曰く「国民は忠実に仕事に励み、勤勉に倹約をして生計を立て、自ら質実を重んじ自らを励み勉め続けなければならない」という一文。ここに出てくる「質実(誠実であること)」を国民に奨励する一方で、国体尊重を徹底するぞと「剛健」をくっつけていき、四字熟語が使われるようになります。

初代が登場する80年前に、質実剛健なる言葉は生まれていたわけですが、「簡古素朴」と言わなかったところがミソでしょう。同じ意味ですが、字面が国体尊重とはかけ離れそうです。簡古素朴はむしろ初代向けのイメージです。誤解を恐れずに書きますが、巷で見かける「初代かっこいい」の評価に「そうなの?」と思わされる半面、そんな評価が得られるのは昨今のSUVが安全・経済性能はともかく、面白みの点で金太郎飴になってしまったことを感じ取られているからと邪推するのです。

ここで避けて通れないのが、三代目以上に空振りを喫した二代目のことです。登場時の姿は初代のとき以上に「なんでこんなことになった」というものでしたが、僕を含めて日本でだけの印象だったのかもしれません。何度か書いていますが、ダカールラリーでアピオが成績を出していたのは二代目ベースのラリー仕様ですし、いまさら引き合いに出すのもなんですが、ウエストウインのTA52Wがエスクードの戦闘力を遺憾なく引き出してきました。

うまく行ったり行かなかったりの歴代は、ありていに言えばメーカーの社内政治によって翻弄されているのですけど、歴代それぞれにファン層が生まれ、販売台数とは無縁のところで人気を集めていると思います。公的機関に在庫処分のように放出し廃盤となったセダンだって、メーカーでは新しいセグメント参入へのチャレンジを放棄する政治決着でした。それに比べればエスクードはまだ救われています。絶え間なく市場のフロンティアにいるのですから。

 

 

皮算用の顛末

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今年の残り日数で、3000キロを走るのはちょっと無理。と思っていたら、主治医が予定よりも早く車を仕上げてくれたうえ、3000キロどころか残る距離は1000キロの見誤りだったという間抜けな顛末になりました。なんだよ自分で乗ってて2000もの誤差に気がつかないとは!と独り突っ込みしつつ主治医の仕事に感謝して、ここから怒涛の追い込みです。

 

ここまで来てしまって困っていることもあります。3年前に地球と月の往復距離を走り切った際に、粗品を作ったのですが、新型コロナウイルス感染拡大であれもこれも自粛となり、これを配布する行事もできず、いくらかは配ったものの大量に残っているのです。

今さら要らないよねえこんなもの・・・

もう無いだろうと僕も思ってましたよ

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「ゴジラvsメカゴジラ」の封切りから30年となりました。いやー、この映画になんで入れ込んでいるかって、劇中にスズキエスクードが登場するからで、過去に「端役ながら大役」「だから鵜呑みにしてはいけないぜ」を書いているほどです。こうなると、30年経ったよということ以外に、エスクードを絡めた「vsメカゴジラ」のことでは書けるものはもう残っていないなあと、僕自身が思っていたわけですよ。

そしたら当時、こんなムックを買っていたことを、不意に記憶の底から呼び覚ましてしまい、しばらく発掘作業をしていました。30年だもの、どこに片づけたかなんて忘れちゃってましたよ。ついでに言えば、ゴジラ映画ごときでムックなんか、普通なら買いません。この本に関しては、主役メカとなったメカゴジラ、ガルーダと同じページに、あの(しつこい)エスクードが掲載されていたからです。いやほんとにそれだけの理由。

テキストの内容はほぼ記憶から消えていました。読み直してみたら、エスクードが登場するシーンは、脚本上では単に「クラシックカー」とだけ書かれていました。車種の吟味もなされていなかったのです。この車がエスクードではない可能性もあった。現地調達を果たした大道具小道具さんたち、とてつもなくよい仕事をしてくれていた(僕にだけのことですけどね)のでした。しかし絵コンテにはすべてのシーンとも描かれていませんでした。

さて多分「vsメカゴジラ」とエスクードの話題は本当にこれが打ち止めになると思いますからもう一冊、「ゴジラ1954‐1999超全集」というのが上記のムックよりもあとに出版されております。上記の出版は東宝本家、ゴジラ生誕40周年と、本多猪四郎さんの追悼をうたっています。こちらは小学館からのリリースでしたが、本多さんに加えて田中友幸さんの追悼も加わり、円谷英二さんも含めたゴジラ生みの親たちに捧ぐとされています。

ここでも、1993年の「vsメカゴジラ」は当たり前に扱われています。そうです、ストーリー紹介のスチル群に、Gフォース本部玄関口近くに駐車されたあのエスクードも、またもや200ページを超える一冊の中のわずか1ページの、たった一コマにて掲載されているのです。残念ながら「vsデストロイア」に出てくる民間人のV6ノマドまでは網羅されていませんが、クルマジャンルと全く異なる書籍で2冊にわたって載っていることが、30年前としては快挙でした。

でもさー、これって結局Gフォースの建物と主演にあたる青木一馬のスチルであって、しかも同じ場面じゃんよー。と、長年、自嘲(なんで俺が俺を笑わねばならんのかわからん話ですけどね)していたのです。ところがそれぞれの掲載スチルをよーく見ると、東宝版と小学館版とではアングルが異なり、映画フィルムから起こしたものだとすればカメラのパンの状況から、小学館版の方が車を降りた直後のようです。そうだったのかと、まさしく愛蔵版の2冊となりました。

さすがに今年の修理はこれが最後のはず

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例年にないほど故障を続けたBLUEらすかるでした。ご想像の通りそれでも車検を通したわけですが、この整備でようやくブレーキ系統のマスターバック周りの部品が届き、フルード漏れを止めることができました。前後のハブベアリングも新しくなり、近日中に900000kmのラインを越えることができそうです。そのあとの距離を1年で走り切るのは不可能ですから、2025年の暮れあたりが目標になっていくでしょう。そうなれば、1台を20年所有するのも僕の中では新記録になります。

なんてことを書いたばかりに・・・

実は上記の作業は本日時点でまだ継続中なんですが、代走で使っているぷらすBLUEの方が、朝は何でもなかったのにさきほど動かしたらoverdriveのパイロットランプが明滅を繰り返し、なんだか4速に上がらない感じです。

えーっ? ミッションかスイッチ側の故障か、はたまたECU?(どうやらECUの単発エラーだったようです)

とか言って安心していたら!

「修理のためのパーツ取り寄せに追加が出ました。うーん、届いたら突貫で作業しますが、終わるの20日くらいになります」

というわけで、年内の90万キロ到達は断念です。とほほ・・・

忘れた頃の・・・というよりすっかり忘れてた

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SGAって、俺こんな部品注文したっけか? と、片付けをしていたら出てきたスズキ純正部品のコードシールも貼られた箱が謎を呼びました。

これは更に別の段ボール箱に梱包されていたので、存在をすっかり忘れていたのです。しかも箱自体が小さい。軽い。エンブレムでも買ったのかなあと思いましたが初代用なんてもう無いはずです。

しかし箱を開ける間でもなく、あちこち英文でマーキングされているくせに一か所だけ「スズキビターラ」とカタカナ表記がありました。

伝票を見たら2019年の11月に発送されていたものです。なんてぐうたらな・・・ 家じゅう発掘したらまだこの手のものが出てくるのか?

Team WESTWIN Warriors#188

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年次的には半端な昔の2007年。11月25日、我々は京都市右京区の山奥でダートトライアルの耐久レースを観戦していました。これがWESTWINの二枚看板、後藤誠司君と川添哲朗君、さらに諸事情で来場しなかった島雄司監督を除くTeam・WESTWINの方々との邂逅です。この頃彼らはまだエスクードには乗っておらず、このレースではターボ仕様のパジェロミニを扱っていました。で、ここからレースの話を書くと長くなるので、概略だけリンクしております。

確か、対外試合としては彼らは初陣だったはずですが、島監督曰く「私が鍛えた秘蔵っ子です」と語った通り、並み居る強豪相手に二位をもぎ取りました。当然、彼らは二位という戦績には不満だったのですが、クルマの底力を侮っていたとはいえパジェロミニでこの走りなのかと、我々は大いに驚き喜んで、「もしもこの子らがエスクードで戦うようになったら」と、よからぬことを思いつくのです。それは三年後の広島県で実現していきます。

あっ当り前の話ですが、彼らだけでなくみんな若いわ。厳密には僕を除いて、ですけど。96年式のBLUEらすかるだってこの時点ではまだ11年目程度です。僕以外の何人かはさらに遡って島監督が現役ドライバーとして最後の耐久をエスクードで走る姿を見ることもできた、貴重な経験者たちです。狼駄さんなんてインフルエンザか何かで高熱出ているのに「やめとくか?」「行き・・・ます」で連れてこられちゃって大変な目に遭ってます。

ところで・・・浜松で静岡勢と合流してSIDEKICKさんとkawaさんの先導で京都まで出かけたこの日、夜中に市内に入ってコスモスパークへの道順確認で路上駐車しているのが、京都っぽい唯一の写真なんですが、ここって現在のストリートビューを見るとだいぶ変わってしまってます。なにしろエドワード・ヒースロー教授が京都に住み始めてまだ二年目くらいの頃ですから。でもコスモスパークに対して、クルマの向きがまったく逆なのが謎です。