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  ~懲りない傾向~

客演共演の功績

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u7-009シリーズ中あきれるほど沢山のウルトラ戦士と共演しているウルトラセブンは、特撮ヒーローの世界で別番組のヒーローが客演した最初の実績を持っているかもしれません。

ベムスターに敗れた新ウルトラマンに、ウルトラブレスレットを与えに彼がやってきたのは1971年8月。同年12月には初代ウルトラマンとともに地球へ飛来しています。余談ですが、2001年7月には霰、霙とも邂逅しています(笑)

客演共演と言えば、仮面ライダー1号、2号の桜島編が有名なエピソードですが、これは翌年、72年の元旦のことでした。テレビ画面で2大ヒーローが夢の共演というエポックは、おそらく新ウルトラマンとセブンの、ほんのわずかなシーンから始まったのかもしれません(それ以前の確認はしておりません)

いやちょっと待て。それを言うなら初代ウルトラマンとゾフィーがあるんだよ。という突込みが入るのですが、これこそダブルライダーに近い同一番組内での登場なので、ノーカウントにしています。もちろん一つの番組に二人目のウルトラマンが出てきたという点で、ゾフィーの業績も大きいです。

ただし、これは要確認付帯条件付きの特撮でのお話。これをアニメーションの世界に広げると、セブンもゾフィーも初ではなくなります。

偉大なる二代目

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いつからか「ジャック」という通り名がついてしまったけれど、ウルトラマンが「ウルトラマン二世」と呼んだ二人目のウルトラマンは、未だに通り名のない一人目のウルトラマンをほぼ「初代ウルトラマン」として定着させたことに、実は陰ながら偉大な功績を有しています。

彼がいなければ、「初代」という冠は誕生しなかったし、これは彼より前に登場しているウルトラセブンには、逆立ちしてもできない偉業なのです。

後の制作サイドが、初代を冠として成立させながら、彼を二世としては名乗らせなかった事情は知りませんが、世の子供たち(当時の)に、二代目に対する前任者を「初代」という呼称ならびに漢字で知らしめたことは、特撮番組の歴史の中ではひとつのエポックだろうと思います。二代目が現れなければ、初代という冠も存在しないのですから。

二代目ショートうーむ。初代エスクードに乗っている身としては、やはり二代目に足を向けては寝られないのかもしれません(ほんとかよ)

しかし、エスクード28年四代の歩みに対して、ウルトラシリーズはことし半世紀にもなるにもかかわらず、ウルトラマン三代目とか三世が存在せず、通り名のバリエーション化が拡大し続けています。

これがこわい。50年の節目に「初代ウルトラマンの本名が決定」なんてことをやらかしてもらいたくないということです。そういう事象が具現化すると、ウルトラセブンまでも「ウルトラマンセブンが本名。普段はウルトラセブンと呼ばれる」などという理不尽な書き換えが起きかねません。

偉大なる二代目の功績のためにも、通り名のうやむやはあやふやなままにしといていただきたいところです。

デザインワークスの優劣

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1号新作の仮面ライダー映画が、中身はわからないけれど「1号」だと。これが「3号」のように今の「ゴースト」を絡めたお祭り映画ならどうだっていいのですが、本気で「仮面ライダー」をリメイクするなら、それはやっておくべき仕事です。厳密にいえば三代目の本郷猛ということになります。残念ながら役者の長期間ホールドは「FIRST」や「NEXT」では叶えられませんでした。しかし主人公が人と仮面の姿に入れ替わる変身なくして、このプログラムは成立しないのです。

first本郷猛役の新人を登用することで、「仮面ライダー」という記号はもうしばらく維持可能となるのです。数年前に藤岡弘、さんが自ら変身を演じましたが、企画ものに過ぎない。あの人を数年後に1年間、本郷猛役で拘束することは不可能です。役者のネームバリューで、黄川田将也さんを抑えることも困難でしょう。なにしろ、下手をすると本郷猛編から一文字隼人編があるかもしれないし、シリーズ全体をリメイクすることで向う50年を考えたら、若手の登用は必須なのです。

old-1役者の問題は解決できる。次はデザインワークス。いわゆる「新1号」の造形というのも極めて安普請に見えるようになっていますから、リファインは避けて通れません。しかし今回発表されている「1号」のデザインは、まだ造形レベルではないから何とも言えませんが、胸から腹にかけてのコンバーターラングやグラブのデザインに関して懲りすぎの感があります。ところが、これは好みの領域ですが、最も古い1号というのは、割とそのままでいいのではないかと感じるのです。

要は、仮面ライダーといえども「元はショッカー謹製改造人間」であり、バッタの能力を人間に付加して強化したという前提があります。つまるところ、元は人間。強化服化している昨今のライダー造形や、なんだかわからないクリーチャー傾向の続く「怪人」造形に問題があるのです。

低予算で作らねばならなかった時代の、タイツ主体の初期怪人は、モチーフテイストも雰囲気もいい出来だったと思います。もしも原点回帰しようというのなら、そこが大事ではないか。

とか書きなぐった挙句に、やっぱりお祭り映画だったらもう知りませんですよ、なんですけどね。

怪獣無法地帯

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こっちの方がまだまし

大人になった子供は、歳を喰ってしまったからこそ「当時そのままのアイテム」がほしいと考えるのであって、こんなもんにはなんの魅力も買い物衝動も発動しないのです。それが「第一弾」ときたもんだよ。

馬鹿じゃないの?

そうではない人も、まあいることはいるでしょうけど。これを手にした瞬間、きっと、自分がおっさんになってしまったことを思い知って、がっかりするんですよ。

誕生五十年のウルトラは、ことしはこの手のアイテムで氾濫するんだろうなあ。

 

 

申堅の頃に

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干支の猿を「申」と表記したのはまったくの当て字だそうですが、もともとは稲妻を象形化したもので、「電」(稲妻なので、光の方を示しているから、音を表す雷じゃないのね)の源字です。
本来の読みは「しん」。
稲妻から端を発し、後には「伸ばす」の原字にもなっていきます。草木が伸びて果実が実り、熟した後堅くなっていく様を「申堅」と、古代中国の人々は言っていたとか。
それが作物の伸びきった時期を示すのであれば、日本人が言う稲妻も、同じく稲の成熟をもたらすものであり、悪くないたとえなのかなと感じています。
BLUEらすかるは本年、いよいよスズキエスクードの最長不倒距離を塗り替えるフェイズに入ります。皮算用をすれば、それは秋頃の予定。まさしく「申堅」の頃です。
届くかもしれないし、届かないかもしれない。とはいえ1年の計を立てるときに後ろ向きなことは考えませんから、まあ秋頃には587000kmというバッケンレコードを通過できるよ、たぶん、きっと。と申しておきましょう。
万が一、秋より前に到達しちゃったらどうすんのよ。と、旧知の仲間達ははっぱをかけてくるかもしれません。
さてその際はどうすっかなと逡巡したところ、干支において9番目の「申年」というのは西暦年を12で割って割りきれる年回りでした。
12で割って割りきれるなら、600000kmというのもそうだよね?
てことで、年頭のご挨拶もだいたい格好がついたようです。

 

だけどさ、伸びきって堅い。そんな喩えは、ほんとはどうよ?とも思っているのです。伸びきって堅くなった足回りなんか、いやですよねえ。

謹賀新年 平成二十八年元旦

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「あけましておめでとうございます」と言えるのはとても久しぶりな気がしております。

ことしは雑煮が食えますし、年賀状も出せます(すいません、これから書きます)

ともあれ本年もよろしくお願い申し上げます。

担当さんの陰謀?

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謹啓 松浦だるまさま

と、ファンレターの一つも出してあげればいいのかもしれませんが、ページをめくったとたんに一緒に買ってきたスターバックスのカプチーノをあわや吹き出すところでした。これは「月刊スピリッツ2月号」に掲載された、松浦さんによる「鉄腕バーディー」(ゆうきまさみさん)のスピンオフ漫画の一コマ。

ゲストとして登場させた人物の紹介として、原作の解説が示されている親切なコマなのですが、「4年の鼓動編」というのは、これは誤植です。

正しくは「千年の鼓動」

あー・・・こりゃネームの字にも問題ありだったのでしょうけれど、どちらかと言えば編集担当さんのミスですよねえ。

ゆうきまさみさんと言えば、かのデビュー作では4ページ描いたパロディー漫画が、担当さんの判断で中の2ページを「抜かれて」掲載されたという逸話が有名ですが、こっちはこっちで痛恨の誤植ながら、思わず吹き出しかけて

「わざとか? なんかわざとっぽい?」

と考え込んでしまう相乗効果がありましたよ。

もうひとつあった2015年

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2015年もあとわずかになってしまいました。「バック・トゥ・ザ・フューチャーpart2」だとか「第10回サイバーフォーミュラ世界選手権」だとかで浮かれた年でしたが、先日徹夜仕事の最中に仕事をぶん投げて読み返してしまった「パスポート・ブルー」も、2015年にちょっとしたドラマが描かれていました。単行本第10巻で初営業飛行する純民間スペースプレーンと、これを見送る主人公真上直進の姿です。ただしこのシーンは2016年夏の出来事です。

2015年のドラマというのは、ここに至る途上、2月に日本国で募集開始された宇宙飛行士公募に、直進の履歴が条件を満たしていない。さあ大変だ、という展開。5話分にわたってどよーんと暗雲が立ち込め、いきなりウルトラCでインチキで強引な打開策が繰り出されるという、まるで朝の連続テレビ小説の月曜から金曜にかけてのどん底から急転直下に安堵させられるようなプロットでした。しかし、言わば土曜日の解決編では、直進はまだ沢山のハードルを抱えたままです。

第10巻は2001年8月(実際には7月)にリリースされていますが、ここで描かれるスペースプレーンは、民間開発として進められていたベンチャースターをモデルにマザープレーンを加えるという設定のようです。ベンチャースター自体は計画遅延や試験失敗が重なり、この年の3月に計画そのものが打ち切られています。その一方で、民間人初の宇宙観光旅行も行われていた、まさに21世紀の幕開けだったのです。

で、この辺りのエピソードではまだJAXAではなくNASDA「宇宙開発事業団」なのです。そのNASDAの面々が、ウルトラCでインチキで強引な打開策を周囲から押し付けられた直進の、応募書類を受理するか蹴飛ばすかが、2015年の事業団内での大事件だったようです。そこは全く描かれていませんが、冒頭に紹介した2016年夏に、朝ドラの土曜日版のように解決編がまとめられ、ついでに次のハードルが立ちふさがっていくのです。

 

 

 

フォースの隔世

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エピソードⅦ「エピソードⅣ」は、次に続くとしながらも単品で完結している単純明快な物語でしたが、「Ⅶ」はもう三部作いきまっせ!な展開に終始しました。中身については触れない方がいいでしょうから放置するとして、10年ぶりだからたっぷり観てってくれと言わんばかりの尺の長さ。邦画だったらあと20分くらい縮めちゃうでしょう。飽きは来ないけれど、そこに至るまでが長げーよぉと思っていたところで、クライマックスでは館内のお客さんが息をのむ雰囲気がわかりました。

まーそれにしても、ハリソン・フォードもキャリー・フィッシャーも小汚く老けちゃったなあと唖然としていたら、「Ⅳ」→「Ⅵ」でなんでそうなった?というほど美少年が台無しになっていたはずのマーク・ハミルが、歳食ったら上手に老け込んでいたという驚き。それぞれメイクの成せるわざなのでしょうけれど、かなりのびっくりぽんです。

主演のデイジー・リドリーは、なかなかいいです。ヒロインで主演だったら、彼女連れで観に行っても、ふられたりしねーし(笑) その相棒となるジョン・ボイエガも今後の出番が楽しみです。チューバッカ・・・こいつなんとなく若返ってる気がする(劇中以外のスチルだと毛並みが良すぎ)

それにしても、「Ⅳ」は詰め込みすぎずにゆったりと作られていた(デススター内での脱出劇はある意味だらけてましたが)ことが、今更のようにわかる。「Ⅶ」も詰め込みはしていないけれど、情報量はけた違いに多い。こういうところが隔世の38年なんでしょう。ただ、「Ⅳ」に回帰させていくような風景やシーンはサービス精神だとして、デススターを何度もぶっ壊されてるのに学習能力の無い敵方。帝国時代はデススターのサイズだったから攻撃ポイントがタイトだったとい・・・あっ、なんだか外がざわざわしている?

 

37年矢の如し

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ベイダー卿第一作目の「エピソードⅣ」が公開された頃、十代の僕は、前年に封切られたつぎはぎ映画の「宇宙戦艦ヤマト」(STARWARSの日本公開は78年だったので)に徹夜で並ぶというスタイルがロードショーのスタンダードだと思い込まされました。ついでに言えば、いち早く映画を観るには東京へ出なくてはならない。映画を口実に上京できる(まあ親にはお見通しなんだよねそんなの)。上京=彼女と出かけて映画とデート・・・といった千載一遇の機会でもありました。

さすがにヤマトではそれ(デート)は無かったけれど、STARWARSでは徹夜はしなくとも、うかつにも彼女連れて長蛇の列並びをやっちまったのです。それであんな映画でしょ? ふられますわな。

しかしそこで宇宙冒険活劇に理解を示すような彼女だったら、後に家内との接点もなく霰も霙もこの世に出ては来ない20世紀が展開したかもしれないのだから、これぞまさしく塞翁が馬ってなものです。今の世界を過ごしてきたおかげで、霰なんかバイオリン弾きのベイダー卿と出逢ったりしてます(写真)

あの頃から37年。この間、シリーズが途絶えていたわけではありませんが、80年代には「物語はエピソードⅨまであるが、それは実現不可能だ。なぜならそれを作るだけの映像技術が無い」と、ジョージ・ルーカス氏は語り、ルーク三部作が幕を閉じ、それでも彼の公約はその特撮技術を革新させⅠからⅢに至るアナキン三部作を世に送り出してきました。

いよいよの「エピソードⅦ」。こりゃ下手をするとⅨの頃には孫がいるかもな(いやどうかな、2019年では早すぎるな)・・・とか思いながら、公開初日でも並ばず座席指定のシネコンで、レイトショー観に行きましたよ。そういえば1回の上映ごとに客を総入れ替えしやがる今のシステムも、「エピソードⅣ」が呼び水となって産み落とされたのでしたっけ。

あっ、なんだこの感慨に浸った長い前置きは。これじゃ観た感想書けないじゃん。