自分は宮城へ向かっているのだ。なんでお天とサンが目の前から昇ってくるのだ?
宮城は北にある、という先入観なのですが、それでも、関東に育った人間には、東北道が東へ伸びているという感覚はないんですよ。素直に不思議な光景に思えるのです。そういえば千葉で仕事をしていた時、館山道を南房総に向かって走っているのに、目の前に富士山が見えてきたとき以来だなあ。
太宰の生家のある青森県の五所川原市金木においては、20世紀の末頃から桜桃忌とは言わず、誕生祭として彼の記念日を送っていますが、ふと気がついたらこの人は、僕の爺さん、婆さんと同い年でありました。
もっとも傾倒するほどに作品群を読みふけったことはないので、桜桃忌なる行事のディティールもよくは知らないのですが、なぜか斜陽館(生家)がまだ宿泊施設として運営されていたころに、泊まったことはあるのです。ハイシーズンでもないのに、通されたのが女中部屋として使われていた部屋というのも、なんだかすさまじかった。
正確な没日は6月13日の玉川上水への入水日とされていますが、遺体が発見されたのが奇しくも誕生日にあたる19日。このアクの強さというか執念というか・・・は、実は彼の本心は、生きていたかったのではないかと、なんとなく思います。
♪運命の女神が私のところに遣わされてきても
決して私の苦しみを和らげてはくれない
イヴ・モンタンやおトキさんの歌う、「さくらんぼの実る頃」は、失恋の歌ですが、これを流行させた19世紀のパリ市民は、レジスタンスの歌として歌っていました。もとはプロイセン王国軍への抵抗戦力として、「負けて敗戦処理する臨時政府なんか不甲斐ないぜ」と蜂起したパリ・コミューンであるにもかかわらず、この革命政府を認めない臨時政府が、よりによってプロイセンを含む北ドイツ連邦の支援を受けて徹底的な弾圧をやっちゃう。血の1週間を経て72日間で瓦解していくパリ・コミューンの犠牲者を弔うために、パリ市民は「さくらんぼの実る頃」にかぶせて歌ったのだとか。
そのさくらんぼそのものは、イタリアでは青銅器時代にすでに食われていたらしい、かなり古参の果物で、実を結ぶセイヨウミザクラは現代においてはカナダ南西部、アメリカ北東部から北西部、ニュージーランド、そして日本にも伝わっています。さくらんぼの季節は短いんだ。と、かの歌を書いたJ・B・クレマンは失恋のはかなさを綴っていますが、生命力は絶大です。
~桜桃のつるを糸でつないだら、珊瑚の首飾りのように見えるだろうとも思う~
というようなだったか、珊瑚の首飾りのくだりが読めるところから、太宰さんも、かの歌については知っていて、意外と口ずさむほどでいたのではないかと想像します。歌の方は珊瑚のイヤリングです。妻子には内緒で、ひとり桜桃を食いに出かける「裕福ではない小説書きの主人公」は、そんなことを思いながらも、子より親が大事と、自宅に桜桃を持ち帰ることはしない。僕も桜桃を土産に帰ることはしないのですが、それは僕自身がさくらんぼを食わないからです。
何を書いているんだかわからんくなっちまった。そんなわけで、桜桃忌や誕生祭とはまったく縁も関係もなく、今夜、日付が変わる前に、津軽まで走らねばならないのでした。
青森県三沢市は、震災で被害を受けたものの、岩手以南の沿岸に比べれば、まだ被害は少なくて済んだようです。それでも2人の方が亡くなっているし、地震とともに津波も来ていたのだから、どうなっているのだろうと気がかりでいました。
2009年に気まぐれで出かけた折、太平洋横断に成功した機体、ミスビードルのレプリカ(というより正しくはハリボテ)を眺め、そんな逸話がここにあったのかと、わくわくさせられたものですが、もちろんこの展示機は津波によって全壊しており、砂浜一帯も土砂に埋もれて様変わりしているとか。
実は三沢市や関連有志では、ミスビードルの復元機体をアメリカから借り受け、三沢の航空祭などの機会にデモフライトをしようとずいぶん前から企画しており、昨年それが実現間近というときに、米軍の事情によって機体を空輸できずに断念していました。さらに実を言うと、ミスビードルの三沢からの離陸は1931年のことで、ことしがちょうど80年めにあたる。ならばことしこそはと、はりきっていた矢先に震災ですから、こりゃもう不可能なのだろうと、ひと事ながら残念に思っていたのです。
ところがよくよく三沢市のホームページを見ると、企画は健在で、復元機体は空輸がダメなら船便で、と、昨年秋に搬入されていたのでした。機体の貸与期間はことし10月までとのことで、8月と9月にフライトさせる計画が進行中です。プレイベントもあるようですが、こういうのは趣味性が偏るとはいっても、元気になれるエピソードだねえ。なんでもかんでも仙台に復興イベントを集積させる必要はないわけで、たとえば東北六魂祭という東北六県の主要なお祭りを定禅寺通りに集めてしまうことを否定したりはしませんが、それが仙台でなければいけないという理屈もまた、ないと思うのです。
一般車両への週末の高速道路1000円社会実験は今週いっぱいで中止となり、東北への出足には変化が出ていくと予想されますし、三沢まで行くという距離感も、簡単にクリアすることはできないかもしれないでしょうが、このフライト計画は、応援したいなあ。8月は無理そうだけれど、9月には観に行ってみたいです。
酸ヶ湯、奥入瀬、子ノ口、休み屋と地名と風景を照合させていくと、「軽井沢シンドローム」を読み返したくなるのは自分だけでしょうが、そんな漫画が出てくるのと同時に、前回ここを通り過ぎたのがもう5年も前だったと、しみじみ年をくってきたことを実感します。
観光地でありながら生活道路でもあり、天然記念物に指定されている渓流に沿った国道。環境保護問題や渋滞問題など、いろいろな宿縁を背負わされているわけですが、平日の夕暮れ時には人影など(皆無じゃなかった)ほとんど見受けられない。
2008年の夏に、岩手県沿岸北部震源の地震で大規模な落石があり、当日は「復旧の目処が立たない」と言われながらも、このときは一週間足らずで元に戻してしまったそうです。今回の東日本大震災の影響も、多少は出たのだと思いますが、こうして通れるのだからひとまず安心です。だけどもしも、奥入瀬全体が埋まってしまうほどの未曾有の災害が発生した場合、人はそれでもこの景観の復旧に力を尽くすのか。自然には抗えない、と、102号線のバイパス側に道を委ねるのか、不謹慎なことを考えてしまいました。
ここに至る八甲田からの道のりを走ると感じることなのですが、昔の人って、よくぞこんなところに道を通したモノだと思うのです。現況の国道状態に仕上げていった時代だってすごいよなあと。酸ヶ湯あたりにライフラインを確保する際、数メートルの積雪に対して、スコップによる手掘りと、そりを引いての除雪作業だったという話。それ以前の開削の時代なんて、つまり地図に道がないのだから。それほどの力を、人は持っているんだねえと思いながらも、地球に蹴躓かれただけで、築き上げた文明は一瞬で無くなってしまう。自然を護ったり自然と闘ったりしながら、どうやら自然にはかなわない部分の方が多いような気がしています。
しかし5年前、ここからずっと先の宇樽部というところにトンネルが開通していたなんて知りませんでしたよ。前回来たときのあとに、休屋までのバイパスが完成したらしい。宇樽部の側にはそれらしき標識は見あたらなかったと思うのですが、旧道(冬場はこっちが閉鎖になる)を休屋に降りていったら、立派な道路が横切っておりました。