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  ~懲りない傾向~

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二百と十二年前の寛政十二年、江戸幕府の命を受けた天文方、伊能忠敬さんが、後の大日本沿海輿地全図の基礎となる第一次測量の旅に出ました。

現在の暦で言うと、6月11日のことです。彼の測量は休止も挟んで16年間、10回におよび、天文方といっても高橋至時に師事していた身分で、測量事業のほとんどは私財を処分しての取り組みでした。

彼はその6年前に家督を譲り隠居となり、翌年から天文学を学び始め、地球という天体の大きさを知るために、測量技術を身につけていきました。

よくビジネスマン雑誌に取り扱われる、第二の人生からの偉業だとか、本懐を遂げた云々の代表例に、忠敬さんの年齢が引き合いに出されます。50歳で天文学にたどり着くまでの、彼の生い立ちや、商人としての才覚といった積み重ねもあり、実に例えやすい。団塊の世代がどう感じたかはわかりませんが、なるほど天文学との出会いと天体の大きさを知りたいという衝動は、忠敬さんにとってはひょっとすると、人生で初めて、極めて能動的な目的を描くきっかけになったのだと思われます。

天体の大きさを知るために、という発想は、当時としては奇異にとられていたかもしれませんが、幕府としては国防上の情報管理として、国のかたちと大きさを知ることは重要事項でした。この測量はやがて、国家事業へと拡張されていきます。これがビジネスマン雑誌好みのサクセスストーリーですが、忠敬さんにとっては、肝心なことは日本列島の距離と形を知ることよりも、地球の大きさを知る手がかりをつかむことだったのではないでしょうか。

そんなわけで、1800年の6月に開始された第一次測量は、蝦夷地を目指して、深川から太平洋沿いに北上、半年間の作業に従事します。この事業の中で、忠敬さんは江戸の深川から青森の野辺地との距離をもとに子午線延長を算出し、緯度にして1度の移動距離を「約二十八里二分」と導き出しました。この計算を下地に、彼は地球の外周を知ることになるのです。

東北道を北上していくと、要所要所で、緯度を知らせるボードを通過します(青森から南下しても同様)。もちろん、道は右に左にうねり、アップダウンも繰り返すため、それぞれの緯度間の距離は均一ではありませんが、これがおおむね100から110キロくらいの移動目安になります。「約二十八里二分」というのは、キロメートルに直したら110.7。GPSで測定する現代の数字に対して、0.1%ほどの誤差だそうです。

忠敬さん、200年後の今、あらためてこの技術と情熱に感服しております。