3週間も前の出来事ですが。
仕事を終わって帰ろうとしたら、夕日が射しているのにパラパラと雨が降っていて。ふっと東の空を見たら、綺麗な虹が。あまりにも大きかったので、私のコンデジじゃ一枚に収まりませんでした。
最近、こんな綺麗にまぁるい虹を見ないなーとしみじみ眺めていたら、みるみる薄くなって、5分も経たずに消えてしまったという。綺麗なモノは儚いわねぇ。
3週間も前の出来事ですが。
仕事を終わって帰ろうとしたら、夕日が射しているのにパラパラと雨が降っていて。ふっと東の空を見たら、綺麗な虹が。あまりにも大きかったので、私のコンデジじゃ一枚に収まりませんでした。
最近、こんな綺麗にまぁるい虹を見ないなーとしみじみ眺めていたら、みるみる薄くなって、5分も経たずに消えてしまったという。綺麗なモノは儚いわねぇ。
イギリス人の教師が、食いたくて食いたくてもう辛抱たまらんから食わせてくれと懇願するまで、置賜地方で農耕家畜である牛が食材にされたことはなかった。というエピソードを冷静に考えると、「黒毛の和牛が食卓に上がった」ことと「米沢牛ブランドの誕生」には、直接の因果関係はないんじゃないかなあと思わされまして、要するに「和牛、たまらなくデリシャスです」と「この価格」という部分を直接結びつけるためには、別のファクターが絶対に必要なのではないかと言いたいのです。
しかし、美味いだろ? というその部分は否定できない迫力があります。
哀しいことはただ一つ。牛丼を特盛で食うのが贅沢だった年齢の頃に、とてもじゃないですが、こういうのを好きなだけ食えなかったってことですかね。もっとも今だったら牛丼だって特盛じゃ頼めない年頃になっちゃってますが・・・
置賜地方を東洋のアルカディアと言い慣わしたのは、牛を一頭買って帰ったチャールズ・ヘンリー・ダグラスさんが米沢を去った後、「日本の奥地を見聞するのよ」とやってきたイギリス人牧師の娘こと、イザベラ・バードさん。ただこのご婦人の旅行記は、その風景風物に対しての評価は高いけれど、当時の日本人の体型、風格、メンタリティなどについてはかなり辛辣です。
食文化からして違ってたんだから、そりゃしょーがねーじゃん。とも思わされます。