本記事は、スーパースージー136号に書かせていただいたものです。あんな駄文連載ですから読んでくれる人もいないよなあと思ったし、そもそも四駆雑誌に載せる話か? という葛藤もありました。でもどうせ恥の上塗りだということで、晒してしまいます。
1988年年5月、吉永小百合映画出演100本を記念した『つる -鶴-』が公開された。企画上の原作は木下順二による戯曲『夕鶴』だったが、この映画を監督した市川崑は、過去に同作品の映画化を木下から断られた経緯があり、そもそもの原盤である民話の『鶴の恩返し』をベースにせざるを得ないという葛藤に見舞われた。このエピソードとスズキエスクードの誕生には、同じ年の5月21日に映画が封切られ、25日に新車発売の僅差であること以外何の接点もない。
しかし斜めから見ると、エスクード誕生譚は『つる -鶴-』のそれとよく似ている。
83年頃(注、84年だそうです)のこと、スズキ社内で「次期ジムニー開発会議」が立ち上げられたが、ここに呼ばれた一人の社員によって、当時安定した人気を保っていたSJ30のモデルチェンジを固辞し、二度目の会議から「新型小型四輪駆動車開発」に方向転換させたことは有名な話だ。この社員とは本誌編集人である二階堂裕の、当時の熱意に満ちた姿だ。
場面を重ねれば、二階堂は『夕鶴』の物語を愛した木下に近い立ち位置だった。さらに言えば『夕鶴』はジムニーであり、原盤にはホープスターОN4WDという『鶴の恩返し』が存在する。
吉永記念映画ほどの紆余曲折は、新型小型四輪車開発会議には生じず、スズキ社内でも当時の若手が任されたうえ、ニッチなところでスムーズな開発が進み、『つる -鶴-』に相当するエスクードの誕生に至る。
当時四十路に入っていた吉永だが、かなりの場面で二十代とも思わせる美貌を振りまいた。歳月を経ても彼女は美しいが、齢を経ることは変わりゆく姿を留めておけない。エスクードも同じだ。クロカン四駆の苗床から生まれ、クロスオーバーSUVへの劇的な変貌は、果たして醜悪だろうか?
誕生35年を迎えてなお、これを愛でる人々が大勢いる。なればこそ「エスクードの父」と呼ばれる二階堂編集人にも、エスクードの魅力をもっと世の中に伝えてほしい。
※文中敬称略
僕は吉永さんのファンというほど彼女の出演映画を観たことはありませんが、『つる -鶴-』だけは別格でした。公開日は新作封切りなのでどうしても週末。この当時のスズキの発表物は水曜日。この僅差が埋まっていれば、エスクード誕生譚にもっと寄せられたのですが、無理やりというかチカラ技というか筆者横暴で載せてもらっております。でもこの映画を観た(封切り直後じゃなかったけど)わりにさゆりストを自称することもないんですが・・・